浅利義遠
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生涯
浅利与一は、甲斐源氏の棟梁であった源(逸見)清光の十一男として、1149年に生まれた[1]。兄には後に武田氏の祖となる武田信義や、加賀美遠光らがおり、甲斐源氏を代表する武将たちと同じ一族に属していた。
1180年、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、甲斐源氏もこれに呼応して挙兵[2]。与一は、富士川の戦いをはじめとする各地の戦いに従軍し、その武勇を示した。頼朝が鎌倉を本拠地として固めると、与一はその実力を認められ、将軍の近侍や公式行事の随兵として活動したことが『吾妻鏡』に見える[3]。特に弓術の名手として知られ、その名声は源平合戦の頃には広く知れ渡っていた。『平家物語』巻第十一「遠矢」によれば、壇ノ浦の戦いの最中、平家方から遠距離射撃による挑発を受けた際、義経の側近たちは「その役目なら浅利与一が最適である」と推挙したという。与一は見事な遠矢によって平家方の武者・新居紀四郎親清を射倒し、その名を後世に残した[4]。
鎌倉幕府成立後は、兄・武田信義、安田義定らと共に御家人として仕えた[要出典]。頼朝からの信頼も厚く、幕府の重要な儀式や流鏑馬などでは、武田信光らと並んで活躍しており、関東武士屈指の射手として高く評価されていた[要出典][5]。
建仁元年(1201年)、建仁の乱で捕えられた板額御前の気丈な振る舞いに深く感銘を受け、鎌倉幕府2代将軍・源頼家に対し彼女を妻として迎えたいと願い出た。頼家が「なぜ謀反の徒を妻に望むのか」と尋ねると、「彼女との間に武勇に優れた男子をもうけ、幕府や朝廷に忠義を尽くさせたい」と答えたため、頼家は笑ってこれを許したという[6]。
浅利与一は、承久3年(1221年)に没した。『吾妻鏡』には源平合戦から鎌倉幕府草創期を支えた名弓の武士としての死去が記される。この年は「承久の乱」が起こった年でもあり、当時すでに70歳を超える高齢であったが甲斐源氏の一族として出陣し生涯を閉じた(戦死した)とも伝わるが詳細は明らかではない[7]。旧豊富村の郷土資料館などが編纂した『浅利与一とその後の浅利氏』(中央市教育委員会 発行)は、『吾妻鏡』の史実と、地元に伝わる「承久の乱での戦死・従軍伝承」の双方を、地域に眠る民間説話として丁寧に解説・掲載する[8]。
山梨県中央市大鳥居には義遠が伽藍を再建、寺領を寄進したという大福寺があり、県指定文化財の義遠の位牌や墓所がある[要出典]。
『平家物語』の巻第十一「遠矢(とおや)」
『平家物語』の巻第十一「遠矢(とおや)」に描かれた、浅利与一が平家の武者・新居紀四郎親清を一撃で仕留めるエピソードは、単に弓の腕を競うだけでなく、源平両軍の意地とプライドがぶつかり合う非常にドラマチックな展開となっている[4]。
1. 前哨戦:和田義盛の自慢と、新居紀四郎の「挑発」
物語は、源氏の豪傑・和田義盛が自慢の弓を引く場面から始まる。義盛は船に乗らず、馬の腹が浸かるほど海に乗り入れ、約3町(約330メートル)先にいる平氏の兵を次々と射落としては「俺ほどの強弓の使い手はいないだろう」と豪語していた。これを見た平氏の武者・新居紀四郎親清は、義盛の矢を拾い上げ、「これしき、我が国では子供の遊ぶ弓にすぎん」と大笑いし、その矢をはるか義盛のはるか後方へ射返して源氏の鼻をへし折る[9][10]。
2. 義経へのさらなる「挑戦状」
新居紀四郎の挑発はそれだけにとどまらない。 彼は次に、源氏の大将軍である源義経が乗る中央の船を目がけて、大矢を一本、ぴたりと射立てた。矢には漆でしっかりと「伊予国の住人 仁井紀四郎親清」と署名が書かれていた。これは「これを射返せる骨のある奴はいるか」という、源氏の総大将に対する明確な挑戦状であった[9][10]。
3. 浅利与一の登場と「十五束」の規格外
面目を潰された義経は老臣の後藤兵衛実基を呼び、「この矢を射返せる者は源氏にいないか?」と尋ねる。実基は「精兵の中でも特に腕の立つ者として、甲斐源氏の浅利与一がおります」と推薦し、与一が義経の前に召し出された。 義経から「この矢を射返せますか」と尋ねられた与一は、新居の残した矢を手に取って確認する。(浅利与一は義経よりも10歳ほど年長であり甲斐源氏の棟梁・武田信義の弟という一目置かれる立場でもあったため、義経は極めて丁重な言葉遣いで協力を仰いだ)しかし、与一は不敵に笑ってこう言った。「この矢は矢竹が少し弱く、長さも私には足りません。自分の矢を使わせてください」巨漢である浅利与一が愛用していたのは、伝説の豪傑・源為朝と同じ「十五束(じゅうごそく:約1.5メートル超の矢)」であった。さらに、彼が携えていたのは「九尺(約2.7メートル)」もある特大の塗篭籐(ぬりごめどう)の強弓であった。(当時の成人男性の平均身長(約160cm)の引き尺は、およそ80cm〜85cm(十束)。浅利与一が使ったとされる「十五束」を現代の体格に換算すると、身長が2メートルを大きく超える大男でなければ物理的に引ききることが不可能という[9][10]。)
4. 400メートル超の神業と、衝撃の結末
浅利与一は、自身の特大の矢を九尺の強弓につがえ、極限までよっぴいて(引き絞って)精神を集中させた。そして放たれた矢は、凄まじい風切り音を立てて源平両軍の船の間を突き抜けていく。その距離、なんと四町余(約440メートル以上)。 新居紀四郎親清は、平家の大船の舳先(へさき)に立って源氏の様子を高みの見物していたが、与一の放った超遠距離からの矢は、新居の胴体の真ん中を狂いなく撃ち抜いた。 新居は叫ぶ間もなく、船底へ真っ逆さまに射落とされ、その場に崩れ落ちた[9][10]。
5. このエピソードが持つ意味
『平家物語』は、与一を「もとよりこの浅利与一は、精兵の手利きなり。二町(約220m)の中を走る鹿を外さない強弓である」と絶賛している。 一度は新居紀四郎に射すくめられ、笑いものにされて意気消沈しかけた源氏軍であったが、浅利与一のこの一撃によって士気は爆発的に跳ね上がった。これ以降、両軍は命を惜しまず、さらに激しい総力戦へと突入していくことになる[9][10]。
6.「扇の的」との比較
この説話は、同じく源平合戦で知られる那須与一の「扇の的」と並び、中世軍記文学における「神業的射術」の代表例として後世に受容されてきた。源平合戦の二大スナイパーである「浅利与一」と「那須与一」。同じ「与一(よいち)」の名を持つ二人のエピソードは、どちらも弓の神技を描いたものであるが、その性質は「豪快なパワーと実戦」と「繊細なコントロールと儀礼」という対照的な魅力を持っている[11][1]。
1. 狙ったターゲットの違い
浅利与一(壇ノ浦) 動く船の上にいる「敵の生身の人間(新居紀四郎親清)」を狙った。外せば味方の総大将(義経)の面目が潰れ、敵の猛攻を許すという、極限の実戦状況であった[11][1]。
那須与一(屋島) 揺れる船の上の竿に付けられた「扇の的(物)」を狙った。これは平家側から仕掛けられた「この扇を射抜いてみせよ」という、一種の余興であり儀礼的な勝負であった[12][13]。
2. 距離とスケールの違い
浅利与一 距離は約四町余(約440メートル以上)という、当時の常識を遥かに超えた超遠距離である[11][1]。
那須与一 距離は約七反(約70〜80メートル)ほどであった。距離は浅利より短いが、波に揺れる小さな扇の要(かなめ)を正確に撃ち抜くという、超精密なコントロールが求められた[12][13]。
3. 武器と体格の違い
浅利与一 体躯の優れた大男であり、伝説の豪傑・源為朝に匹敵する「十五束(約1.5メートル以上)」の特大の矢と、九尺(約2.7メートル)の強弓を用いた。圧倒的なパワー派である[11][1]。
那須与一 小柄な体格ながら、標準よりやや長い「十二束三伏(約2メートル超)」の矢を用いた。類稀なる技量と強靭な精神力でそれをカバーする技術派である[12][13]。
4. 結末と周囲の反応
浅利与一 放った矢が敵の胴体の真ん中を撃ち抜き、即死させた。それを見た源氏軍は士気が爆発し、そのまま激しい総力戦へと突入していった[11][1]。
那須与一 見事に扇の要を射切ると、扇が空に舞い上がり、海へ落ちた。その技の美しさに、敵である平家も味方の源氏も共に絶賛し、船の床を叩いて褒め称えた[12][13]。
このように、浅利与一が「戦争の流れを変えた圧倒的な一撃」であるのに対し、那須与一は「戦場を感動させた美しき一撃」という鮮やかな対比をなしている[11][1]。
板額の嫁取り
1201年、越後国の有力豪族であった城氏一族が鎌倉幕府に対して起こした反乱が「建仁の乱」である。幕府の公式記録『吾妻鏡』には、この戦いで奮戦した女武将・板額御前の卓越した弓の技術と、その勇姿が克明に記されている [3]。
板額御前は、髪をきりりと結い上げ、鎧に身を包んで櫓(やぐら)の上に立ち、幕府軍に向けて矢を放ち続けた。その腕前は「百発百中」と恐れられるほど正確無比であった。真正面からの戦いでは太刀打ちできないと悟った幕府軍は、彼女の立つ櫓の死角となる後方の山へ密かに回り込み、奇襲を敢行。両腿を射抜かれ、動けなくなった板額御前はついに生け捕りとなり、将軍・源頼家の前に引き据えられるべく鎌倉へと連行された[3]。
鎌倉の将軍御所に連行された彼女を取り囲むのは、完全に敵一色である。彼女を一目見ようと集まった群衆で、御所は市場のような大騒ぎになった。板額御前は、両太ももに負った重い矢傷がまだ完治していない状態であった。しかし、圧倒的な威圧感と好奇の視線が交錯する中を将軍の前に引き出されても、怯えたりうなだれたりする様子は微塵もなかった。侍だまりには、畠山重忠、小山朝政、和田義盛、比企能員、三浦義村といった、当時の幕府を代表するそうそうたる有力御家人たちがずらりと並んでいた[3]。
『吾妻鏡』は、その姿をこう記している。「漢の時代、皇帝の墓を守った哀れな宮女のように美しく儚げでありながら、その勇敢さはその場の屈強な男子をも凌ぐ」と。朝敵とはいえ類まれな美しさと、百戦錬磨の猛者たちをも圧倒する毅然とした態度。その場にいた幕府の強者(つわもの)たちは皆、彼女の堂々たる振る舞いに深く感銘を受け、畏敬の念を抱かずにはいられなかったという[3]。
そんな中、浅利与一は、将軍・源頼家への目通りを願い出る。鎌倉幕府の若き最高権力者である頼家は、退屈を何よりも嫌い、日頃から尊大な態度を崩さない男である。しかし同時に、常識に囚われない型破りな振る舞いを面白がる、奇妙な器量も持ち合わせていた[3]。
将軍の前に進み出た与一は、単刀直入に申し出た。「越後からの捕虜(板額)の預け先がまだ決まっておらぬのであれば、ぜひ、この与一が預かり受けたいと存じます」頼家は不敵な笑みを浮かべ、与一を値踏みするように見下ろした。「あの女は朝敵であり、比類なき大罪人だ。それをあえて望むとは、よほどの深いわけでもあるのだろう」詰問するような頼家の視線にも、実直で男気にあふれる与一は動じない。大真面目な顔でこう言い放った。「特別な含むところなどございません。ただ、あれほどの強く逞しい女と一緒になれば、必ずや優れた子が生まれます。その子が朝廷を護り、我が武家の繁栄を支える一助となればと考えた次第にございます[3]」
建前を脱ぎ捨てた与一のあまりに率直な言い分に、頼家は一瞬呆気にとられ、次の瞬間、大声を上げて吹き出した。「あの女は見た目こそ美しいが、心中の武骨さや猛々しさを思えば、並の男ではやさしく愛することなど到底できまい。だが、与一ほどの剛の者の好みは、常人の考えとはまるで違うのだな!」頼家はしきりに与一をからかい、痛快そうに笑い転げた。しかし、頼家は退屈な御家人たちの世辞よりも、与一の型破りな情熱を大いに気に入った。「よいだろう。その猛女、お前に遣わす」こうして頼家の許可を得た浅利与一は、傷ついた板額御前を誇らしげに譲り受け、本拠地である甲斐国へと連れ帰った。敵味方として出会った弓の名手二人が、のちに甲斐の地で睦まじい夫婦となり、末永く暮らしたという伝説の、これが始まりである[3]。
姥神様
山梨県の中央市(旧豊富村)に伝わる「姥神様(姥の宮)」は、浅利与一の強弓伝説に登場する老婆である[14][15][16]。
ある日、与一は家来をつれて遠馳けに出かけた。浅利の里から付近の峠を駆け回り、一町畑(いっちょうはた)が見渡せる嶺にたどり着いたとき、遥か遠くの水田に一羽の白サギを見つける。与一がそこから矢を放つと、見事に命中した。しかし近づいて確認すると、それは白鷺ではなく、白い布を纏った老婆であった。与一主従や村人たちの手厚い看護もむなしく老婆は数日後に息を引きとった。誤って老婆を死なせてしまったことを深く悔やみ、悲しんだ与一は、その霊を慰めるために祠を建てて祀った。実はこの老婆、ただの人間ではなく神に仕える身の者(神の化身)であったという。それ以来、一町畑では疫病が流行らなくなり、人々は末永く健やかに暮らしたと伝えられている[14][15][16]。
姥神様と関連する史跡
諏訪神社 姥の宮(山梨県中央市中楯)与一が老婆を祀ったとされる場所で、現在も諏訪神社の境内に小さな祠(姥の宮)が残されている[14][15][16]。
弓建嶺(ゆみたてみね)山梨県中央市にある山。ここから与一が矢を放ったとされており、姥がいた場所までは約1kmもの距離があったと言われている[14][15][16]。
