浅沼享子
日本の政治家(1904−1981)
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略歴
1904年(明治37年)大分県日田市生まれ。父は歯科医の武田恒市。[1]
17歳で結婚したが、婚家の封建的な家風になじめず離婚。東京へ上京し、洋裁学校に通うために喫茶店で働きながら生計を立てる。そこで客として頻繁に訪れていた社会主義者の浅沼稲次郎(のち日本社会党委員長)と出会い、1928年(昭和3年)秋に結婚した。[1][2]
1945年(昭和20年)、日本社会党に入党し、婦人問題研究会常任理事となる。しかし1960年(昭和35年)10月12日、夫の浅沼稲次郎が日比谷公会堂での演説中に山口二矢に刺殺された。
山口二矢は同年11月2日に自殺。翌3日、享子は記者会見を開き、「山口少年の自殺は、けさ新聞ではじめて知りました。山口少年が憎いというより、むしろ気の毒な気持ちです。17の少年にあのような思想を吹き込み、暗殺にかりたてた背後の力に対し、あらためて腹の底から憎しみが燃えあがってきます」と述べ、憎しみを個人ではなく背後の勢力に向ける姿勢を示した(罪を憎んで人を憎まずの精神)。[3][4]
同年11月の第29回衆議院議員総選挙東京1区に日本社会党から出馬し、民社党の麻生良方(元浅沼稲次郎秘書)を破り、2位で初当選する。1位は安井誠一郎前東京都知事。1期のみ務め、次回の第30回衆議院議員総選挙(1963年11月)には立候補せず引退した(麻生良方は初当選)。
墓所は多磨霊園。稲次郎との間に実子はおらず、稲次郎の遠縁の娘を養女としていた。[1]
1960年12月、婦人公論に手記『夫 浅沼稲次郎とともに』を発表し、34年間の結婚生活、夫との闘い、暗殺後の決意を綴った(2010年に同誌アーカイブで再掲)。[1]
引退後も日中友好に尽力。1964年に中国の建国15周年慶祝行事に出席。1970年には2度訪中し、10月には稲次郎暗殺10周年の集会でメッセージを送り、12月には婿の中野(テレビ記者、公害問題専門)と訪中し、周恩来総理・郭沫若副委員長と会見。中野は日本公害問題を報告し、環境交流の端緒となった。[5]
1978年10月、鄧小平副首相来日時に赤坂迎賓館で会見し、日中友好に尽くした故人の遺族として感謝を受けた(廖承志・黄華外相ら同席)。[6]
参考文献
- 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年。