浜一中大福餅事件
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事件の経過
事件の概要
1936年5月10日の運動会終了後、菓子店・三好野製の6個入り大福が生徒や職員に配布された[1][2]。配布以降、大福を食した者が食中毒の症状を訴え、事件発生時の生徒数約1000名のうち883名、生徒の家族1161名、職員21名、職員家族51名が罹患した[1][3]。そのうち、生徒29名、生徒家族15名の合計44名が死亡した[1][4]。なお、死亡した生徒を棺桶に入れていたところ、棺桶の中で蘇生し自ら蓋を開けたという話も伝わっている[5]。
生徒家族の死亡者の大半が10歳未満の子供であったのに対し[6]、より多くの生徒が亡くなった原因は運動会による過度な運動や疲労があったためと結論づけられている[7]。
また、三好野の大福を食した住民らが5月7日から5月10日午後3時までに30人以上[8]、その後さらに40名以上が食中毒に罹患していたことが判明している[7]。
事件の時系列
浜松第一中学校では運動会終了後に大福を配布することが恒例となっており、1936年5月10日の運動会終了後にも同様に配布がなされた。その夜から高熱や腹痛、下痢を訴えるものが相次いだ[2]。
5月11日は休校であったが[9]、正午までには生徒3名が死亡した[10]。
5月12日、全校生徒のおよそ3分の1程しか出席せず、体調不良のなか登校した生徒も多数いた。そのため、学校は単なる食中毒ではないと判断し、13日と14日の臨時休校を決定した。この臨時休校はラジオでも放送され周知を図った[10]。この日時点で罹患者は約1000名、死亡者は17名に達した[11]。
5月13日、死亡者は38名に達した。そのため、葬儀を一時中止として、死亡者の検死を行い原因究明が行われることとなった[11]。
5月14日、死亡者は40名に達し、原因がゲルトネル氏腸炎菌(サルモネラ)であることが判明した[11]。浜松市に第3師団の救護団等が派遣され救急診療を開始した[7]。
5月16日頃には重症者が減少し終息へと向かっていった。臨時休校は5月24日まで継続されることとなった[7]。
5月19日、製造元の三好野の関係者らが菌の混入について疑義があるとして釈放された[6]。
6月9日、教育関係者ら40万人から集められた見舞金が被害者に贈られることとなった。罹患した生徒やその家族には一戸あたり2円が贈られ、さらに死亡した生徒一人あたり100円、死亡した生徒の家族一人あたり60円が贈られた[6]。
事件の終息後
当時として空前の規模の食中毒被害であったため、広く報道されるとともに、県、市、地元医師会、陸軍軍医学校、日本赤十字社や第3師団の救護団、浜松衛戍病院などの機関が連携した結果「被害を最小限に食いとめることができた」とされている[1]。この事件は社会に食中毒の恐怖を認識させることとなり、これ以来「大福餅事件を忘れるな」が合言葉となった[14][注釈 2]。
原因
中毒の原因について、当初は製造元である三好野を解雇された人間の怨恨による毒物混入や緑青中毒、製造過程での過失といった推測がなされた。怨恨説については、該当人物が一時警察に検挙拘留されたが、被害者の中に近傍の浜松飛行第7連隊や高射砲第1連隊の関係者が含まれたことから、陸軍軍医学校が北野政次(当時二等軍医正)[注釈 3]を派遣して調査し、三好野での製造中に混入した「ゲルトネル氏腸炎菌(サルモネラ)」と発表した[1][4][17][16][18]。
三好野は店内にネズミが横行するような劣悪な衛生環境であり[16]、餡を製造から三昼夜も台所の端に置きっぱなしであったとされているが[19]、その混入経過の解明にまでは至らなかった[1]。大福は白餡入りと黒餡入りが3個ずつ配布されたが、発症者の多くは黒餡入りを食べた者だったことから「ネズミの糞が目立たない黒餡の大福から糞を取り除かなかったのではないか」とする見解がある[7][16]。