海眼浄光
1722-1786, 江戸時代中期の黄檗僧、画僧
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略伝

長崎に生まれ、早い時期から聖福寺の僧となる。20歳の頃、岳宗元璋に嗣法したが、25歳に師が没するとこれをきっかけにしてか僧籍を離れる。
既に黄檗僧として画の技量を磨いていたものと思われるが、還俗後に沈南蘋の直弟子である熊斐の門下となり、彩色写生風の花鳥画を学び、独特の画風を確立。作品の款記から、延享4年(1747年)頃には京都に住んでいたようだ。やがて大坂に出て画業で生計を立てる。俗界にあっても禅の戒律を守って清らかな生活を続けており、友人の悟心元明は「禅友」と呼んで賞賛した。
宝暦末年頃には大坂で名声を確立し[1]、沈南蘋の花鳥画を広めたと言われる(上田秋成『あしかびのことば』)。一方で禅味のある墨竹図を好んで画いている。木村蒹葭堂が画の弟子となったほかに、柳沢淇園、池大雅、黄檗僧の大鵬正鯤、聞中浄復などと親しく交友した。また、寿米翁と号し、俳諧師・狂歌師としても活躍した。
明和3年(1766年)、再び黄檗僧に復帰し、4年後の47歳の時に萬福寺塔頭の輪流十三院のひとつ紫雲院第6代住持となり、松隠堂の輪番塔主も勤める。紫雲院で15年過ごし、聖福寺の住持を請われたがこれを固辞し大坂に向い、ついで江戸に出る。


