海鋒義美
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海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた[6]。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。そのような中での赴任であった[5][6] [7]。
戦後、海鋒はラジオの子供向け歌番組の企画に参加した。当時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による検閲があったが、歌もその対象だった。そのため、この歌番組は子供たちに新しい歌、ひいては夢や希望を与えるという趣旨の企画であり、放送局はNHK仙台中央放送局、番組名は「東北うたの本」といった[注釈 1]。海鋒の他には、福井文彦、佐藤長助、草川信、弘田龍太郎、天江富弥、スズキヘキ、富田博、刈田仁、永野為武、浜田広介、巽聖歌、草苅辰雄、草苅亀一郎など複数の作曲家と作家がこれに参加していた[9][10]。この企画で海鋒が作曲した『仲よしの歌』(沢渡吉彦作詞)と『春の足おと』[注釈 2](富田博作詞)、『こぶしの花』(藪田義雄作詞)は教科書にも採用された[11][12][10]。このうち『春の足おと』は、故郷である山口村(天童)の早春の情景から作られたという[5]。
海鋒は東北地方の学校の校歌多数も作曲した。その数は約380校に及ぶ[3]。晩年にも校歌を手掛けており、1990年(平成2年)に開校した古川市立古川第四小学校(現在は大崎市立)の校歌は海鋒の作曲によるものである[5]。
海鋒は、郡山女子大学短期大学部教授、長谷柳絮専門学校理事長、全日本吹奏楽連盟東北支部長・理事長、宮城県吹奏楽連盟会長、宮城県おかあさん合唱連盟理事長を歴任した[7][13]。
宮城県吹奏楽コンクールの一部部門では特別賞として「海鋒義美賞」が設けられている[14]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 「文化人名録 昭和43年版(14版)」国立国会図書館デジタルコレクション
- ↑ 『音楽の友1998年2月号』音楽之友社、1998年。
- 1 2 "海鋒義美さん生誕120年の展示会 校歌作曲した約380校、地図で紹介 仙台で29日まで"(河北新報)2025年6月20日付記事。2025年11月8日閲覧。
- ↑ "せんだい文学マップ"(仙台文学館)2025年11月8日閲覧。
- 1 2 3 4 『みやぎの群像』
- 1 2 『ひたすらに生きて 宮城庶民伝2』
- 1 2 「音楽教育の証言者たち 下 (戦後を中心に)」国立国会図書館デジタルコレクション
- ↑ 嶋田由美 「「東北うたの本」と戦後の子ども : 新しい子どもの歌作りの過程の考察と聴取世代へのアンケート調査を通して」『和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 』18巻、2008年。2025年11月8日閲覧。
- ↑ 「ふるさとの歌「東北うたの本」の活動」『音楽教育 ヴァン Vol.31』 教育芸術社、2016年、16-17頁。
- 1 2 「東北うたの本を歌う会」『小学音楽通信 Spire_m 2015年秋号』 教育出版、2015年、14-15頁。
- ↑ 嶋田由美 「「東北うたの本」と仙台放送児童合唱団 戦後の児童文化育成と学校音楽教育における意義」『和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要』15巻、2005年。2025年11月8日閲覧。
- ↑ 加藤理 「教師・富田博の昭和20年8月15日までの活動記録の分析 戦後の児童文化復興における教師の関り1」『文教大学教育学部紀要』57巻、 2023年。2025年11月8日閲覧。
- ↑ "海鋒義美先生の作品を歌う会(2025年8月3日) パンフレットより"(海鋒義美の音楽活動を顕彰する会)2025年11月8日閲覧。
- ↑ "宮城県吹奏楽連盟" 2025年11月8日閲覧。
参考文献
- 河北新報社(編集・発行) 『みやぎの群像』 1992年、115-118頁。
- NHK仙台放送局 『ひたすらに生きて 宮城庶民伝2』 宝文堂、1985年、205-208頁。