深見鐘三郎は安政2年8月24日(1855年)に江戸四谷左門町に生まれた[1]。明治5年9月2日に海軍兵学寮へ入寮し、明治10年に少機関士へ任官、その後正八位・従七位へ昇った。明治16年秋には大機関士、明治18年9月29日に天龍機関長、明治21年頃には武蔵機関長を務めた。
その後機関少監に進み従六位勲五等となり、明治27年の日清戦争では吉野機関長として出征し、明治28年9月27日に功四級金鵄勲章を受章した。明治26年6月には、建造中の吉野を英国から回航する委員に選ばれ、加藤友三郎らと共に任務に当たった。
また明治27年10月3日付の深見による技術答申には、戦訓として国産炭の粉炭を混和精錬して練炭を製造することの必要性を提言し、非常時供給体制確立のため備蓄を推進すべきとした。
明治30年9月3日に機関術練習所長、同年10月8日に大監となり、明治30年12月28日に富士機関長、明治34年3月5日に呉鎮守府機関部長、明治35年5月24日に佐世保鎮守府機関部長を歴任した。明治36年7月7日に待命、明治38年11月2日に総監、明治39年1月27日に少将となり、同年5月20日に従四位へ進められた当日に没した。享年52。
『人事興信録』によると、家族は、母まさ(天保4年生)、妻かね(元治元年生、佐藤氏)、弟銀三郎(明治6年生)、男和成(明治15年生)、男宏之(明治18年生)で、住所は東京市小石川区小日向水道町であった[7]。