Wikiwand AI

淺野三彌

From Wikipedia, the free encyclopedia

淺野 三彌(あさの さんや、新字体:浅野 三弥、1863年文久3年〉 - 1905年明治38年〉12月11日)は、明治時代医師。号は烏城群馬県高崎市の医師・淺野誠伯の子として生まれ、医科大学別課を卒業後、アメリカ合衆国カリフォルニア州のクーパー医科大学で学んだ。のちにハワイおよび高崎で医業に従事した。

文久3年、高崎の医家に生まれる。父は医師の淺野誠伯である。号として「烏城」を用いた[1]

明治19年6月、医科大学(現在の東京大学医学部の前身)別課を卒業した[2]。卒業後は、東京神田駿河台の佐々木病院にて名医・佐々木東洋に師事し、明治21年5月頃まで実地研修を積んだ[3]

その後、医学の奥義を究めるため渡米し、カリフォルニア州のクーパー医科大学(後のスタンフォード大学医学部)で学んだ。同校において浅野は、内田・毛利伊賀英語版小林参三郎英語版ら日本人先駆者たちに続く卒業生として、明治25年(1892年)12月にM.D.(医学博士)の称号を得た[4]

米国滞在中の明治25年(1892年)7月発行のサンフランシスコの邦字新聞『愛国』(Ai Koku)においては、規則編纂委員として浅野の名が記されており、現地の日本人社会の活動にも関与していた[5]。同年12月、クーパー医科大学卒業直後にはサンフランシスコのエディー街220番地において医院を開業し治療にあたった。また、同年12月発行の邦字雑誌『遠征』には、自身の卒業に際し30歳を目前にした浅野が自らの大志と焦燥感を綴った「歳暮」と題する随筆を寄稿している[4]

ハワイでの活動

明治27年(1894年)のハワイ革命の混乱期にハワイ(布哇)へ渡る[3]。浅野は、ホノルルのみならず、ワイアルア、コハラ、ハレイワ、ハワイ島ハマクア地方のパウハウなどで活動した。現地では医業のほか、製糖会社の衛生事務担当や、ハワイ地方移民監督官を務め、日系移民の保護・衛生管理に尽力したとされる[1][6]

明治28年(1895年)には、ハワイ島ハマクア地方パアウイロにおける浄土宗寺院建立にも深く関与し、発起人として寄付や建築監督に尽力するなど、日系社会の有力者として貢献した[7]

帰国後

晩年

脚注

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks