淺野三彌
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文久3年、高崎の医家に生まれる。父は医師の淺野誠伯である。号として「烏城」を用いた[1]。
明治19年6月、医科大学(現在の東京大学医学部の前身)別課を卒業した[2]。卒業後は、東京神田駿河台の佐々木病院にて名医・佐々木東洋に師事し、明治21年5月頃まで実地研修を積んだ[3]。
その後、医学の奥義を究めるため渡米し、カリフォルニア州のクーパー医科大学(後のスタンフォード大学医学部)で学んだ。同校において浅野は、内田・毛利伊賀・小林参三郎ら日本人先駆者たちに続く卒業生として、明治25年(1892年)12月にM.D.(医学博士)の称号を得た[4]。
米国滞在中の明治25年(1892年)7月発行のサンフランシスコの邦字新聞『愛国』(Ai Koku)においては、規則編纂委員として浅野の名が記されており、現地の日本人社会の活動にも関与していた[5]。同年12月、クーパー医科大学卒業直後にはサンフランシスコのエディー街220番地において医院を開業し治療にあたった。また、同年12月発行の邦字雑誌『遠征』には、自身の卒業に際し30歳を目前にした浅野が自らの大志と焦燥感を綴った「歳暮」と題する随筆を寄稿している[4]。