清水喜助
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主な作品
(1783年(天明3年) - 1859年6月8日(安政6年5月8日)) 江戸時代の大工棟梁で、のちの清水建設の創業者。号は包喜(かねき)
現在の越中国婦負郡小羽村(現・富山県富山市小羽)の豊かな農家の長男に生まれた。大工を志し日光山で修行の後、1804年(文化元年)、21歳のとき、神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店を住居にし、江戸での第一歩を踏み出した(この年を清水建設では創業の年と定めている)。その後、「清水屋」の屋号で、神田新石町(現・内神田三丁目)の表通りに店をだす。丹後宮津藩本庄家の御用達大工となり、1838年(天保9年)には、江戸幕府の命により江戸城西ノ丸造営の一工区を請け負う。このとき喜助は越中から呼び寄せた弟子の藤沢清七とともに御用を務め、以来彦根藩井伊家、佐賀藩鍋島家の御用達も務めるようになる。後に喜助は、清七の腕と働きぶりを見込んで彼を長女ヤスの婿養子に迎える。喜助が一介の職人から幕府御用を務めるまでに出世したその経緯について詳しい資料はないが、清水屋は世間から信用され、喜助と清七は確かな仕事ぶりでそれにこたえ、商売の基礎を固めていった。
喜助は1849年(嘉永2年)に、幕府祈祷所であった江戸・牛込の高田八幡宮隨身門[1]を落成させる。この功績により、同年神祇伯白川神道の門人神拝次第を伝授され、「日向」の国名を名乗ることや、上棟式における風折烏帽子と祭事用装束の着用が認められた。つづいて1851年(嘉永4年)には、上野輪王寺宮から「出雲」の国名と熨斗目の着用や非常時の帯刀を許され[2]、また幕府祈祷所である金龍山浅草寺御用達や、幕府祈祷所・徳川家霊所である東叡山寛永寺御用達大工となり出世を遂げていく[3]。
1858年(安政5年)、200年以上に及ぶ長い鎖国が解かれ、翌年に神奈川、長崎、箱館が開港される。幕府の信用を得ていた喜助は、横浜開港に向けた奉行所・関門等の幕府施設を請け負い、開港場建設に参加する。当時、小さな漁村であった横浜は役所や役宅、商人たちの事務所や店舗などの建設ラッシュに沸いており、清水屋は横浜坂下町に支店を構え、清七にこの店が任された。喜助は老齢であったが、仕事に注ぐ情熱は衰えず、江戸と横浜を頻繁に往復した。1859年(安政6年)5月、喜助はある外国関係の工事の遅れを取り戻すため、早朝に早駕籠で江戸を出発。しかし途中で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。墓所は谷中霊園(甲9号13側)。