渋川義俊
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応永7年(1400年)、渋川満頼の子として誕生。室町幕府3代将軍足利義満から偏諱を受け義俊と名乗る。父が探題職を退いたため、代わって九州探題となる[1][2]。その交替時期については『史料綜覧』などの応永25年(1418年)交替説、高柳光寿などの応永26年(1419年)交替説、三浦周行などの応永27年(1420年)交替説があるが、川添昭二は満頼の探題としての最後の発給文書などから応永26年交替説をとっている[3]。また探題就任前から肥前に知行安堵状や寄進状を発行したことが確認され、父の代官的役割を果たしていたと推測されている[2]。
応永26年に李氏朝鮮が対馬に侵攻した応永の外寇に対処。少弐満貞と共に朝鮮軍を破り、翌応永27年から33年(1426年)まで朝鮮と交易を行った。交易では応永の外寇で抑留された日本人の請還を図り、『海東諸国紀』によれば自らを「九州都督左近大夫将監」と称したという[1][2]。
『歴代鎮西志』によると応永30年(1423年)に少弐満貞に攻められ、博多を根拠とすることが困難となり、その貿易商人の支持も失った[2][3][4][5]。肥前に山浦城を築いていたが、応永31年(1424年)に筑紫冬門に攻められ、翌応永32年(1425年)には再び満貞に敗れた[2][3]。そのため正長元年(1428年)に探題職を従弟・渋川満直に譲り、自らは筑後酒見城にて隠棲生活を送った。