渋川義鏡
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関東下向
前半生は不明であり、正長元年(1428年)に父とされる義俊は隠居したが、九州探題職は譲られなかった。次の探題には義俊の従兄弟の満直が就任している。
長禄元年(1457年)12月、8代将軍・足利義政の命により、異母兄の天龍寺香厳院主・清久が還俗して足利政知と名乗り、正式な鎌倉公方となった。当時、古河公方の足利成氏が関東で享徳の乱を起こしており、これに対抗するためであった。
長禄2年(1458年)5月、政知が関東に下向すると、義鏡も共に下向した。これは、関東[注釈 3]に渋川氏の分家が存在していたこと、同氏が足利氏一族でも家格が高い家柄であることが理由ではないかといわれている。なお、『鎌倉大草紙』では、義鏡は既に長禄元年に関東に下向し、関東探題として兵を募ったが不足であり、義政に将軍家の者(政知)の派遣を要請したともいわれている。
攻勢頓挫
義鏡は主君の政知と共に関東に赴くが、伊豆国の国清寺に留まる(堀越公方)。他方、義鏡は先祖相伝の地である武蔵北部の蕨郷(現在の埼玉県蕨市)を拠点とし、政知ら堀越公方を支えた[2]。
8月、成氏側の武将・岩松持国が幕府側へ寝返っているが、下向前の3月に政知が帰服を求める御教書を送っており、義鏡が副状を添えている。この頃から義鏡は政知の執事となっていた。それでも堀越府は軍事力不足の為、幕府が成氏討伐の為に斯波義敏に関東出陣を命じている。また、義鏡は渋川一族の動員を認められ、義俊の同母弟(義鏡には叔父)とされる渋川俊詮は、翌長禄3年(1459年)に武蔵国浅草で病死している[1]。
しかし、義敏は執事の甲斐常治と対立、長禄合戦を引き起こした。これより前、義政は両者を和解させたが対立は収まらず、合戦になったのである。義敏は11月の再出陣命令に従うが、長禄3年5月に軍を越前国に向けて甲斐派の金ヶ崎城を攻めて逆に大敗した。激怒した義政は義敏を廃嫡し、僅か3歳の息子の松王丸(義寛)を次の当主に置いた。
10月、関東の幕府軍は斯波氏不在のなか、成氏方に大規模な軍事攻勢をかけようとした[3]。このとき、上杉方は一門や有力被官など動員できる勢力を全て集めており[4]、堀越公方からも義鏡が軍勢を率い、五十子陣に入っている[5]。
10月14日、義鏡ら幕府軍は古河に進軍するさなか、武蔵太田荘会下(えげ)において、成氏方と合戦を行った[5][6][7]。翌15日朝、両軍は上野佐貫荘の海老瀬口において、夕刻には羽継原で戦闘を行ったが、幕府方はこの戦いに敗れた(太田荘・佐貫荘の戦い)[5][7]。敗れた義鏡は豊島郡浅草まで退き、ここに陣取った[5][8]。
義廉の斯波氏相続
寛正元年(1460年)正月、幕府側の大名・今川範忠が駿河国に帰国したことで、4月には政知陣所の国清寺が古河公方側に焼き討ちされた[8][9]。これにより、政知は陣所を堀越御所に移した。
そのため、義鏡は家臣の板倉頼資を上洛させ、関東の情勢を伝えるとともに、幕府と軍事力に関して対応を協議した[9]。協議の結果、斯波勢が再編されることになり、8月に斯波氏の家臣である朝倉孝景と甲斐敏光が関東に派遣され、堀越方の軍事力の目処は立った[10][11]。また、義鏡と政知はこの機に乗じ、斯波軍を利用して鎌倉に入ろうとしたが、同月に義政に制止されている[12][13]。
寛正2年(1461年)9月、義政は斯波氏の家督を、斯波義寛から斯波義廉に代えた[14][15]。義廉の父は渋川義鏡であり、政知の側近でもあったことから、この家督交代は義鏡の働きかけもあったとみられ[15]、一度頓挫していた斯波氏の関東出兵と無関係ではないと思われる[14]。また、義鏡が斯波氏の越前・尾張・遠江の軍事力を以て、堀越公方の軍事力を増強する意図もあったとみられる[15]。義鏡は引き続き関東に在陣し、堀越公方を支えた[16]。
10月、遠江において「国忩劇」と呼ばれる大規模な騒乱が発生したが、これは斯波氏の家督や遠江の守護職が義敏から義廉に変更されたことに対して、国人衆が反発したものだとみられる[17]。斯波氏の遠江勢は前年の秋以降、越前勢や尾張勢と共に鎌倉に出陣していたが、この混乱によって遠江に帰還した[17]。また、義鏡も板倉頼資を遠江に送った[17]。
12月19日、義政は帰国した斯波氏の遠江勢の兵力を補うため、駿河守護の今川義忠(範忠の嫡子)に対し、政知が無勢なので伊豆に赴くように命じた[18]。
寛正3年(1462年)3月14日、幕府は遠江の「国忩劇」収拾のため、瑞智西堂と梵伊西堂の2人を派遣し、これによって和睦が成立したとみられる[19]。その後、4月中旬に板倉頼資が遠江から相模一宮に戻っていることから、斯波氏の遠江勢も鎌倉に帰還したとみられる[19]。
失脚
寛正2年10月、義鏡と共に政知を支えた上杉教朝が自殺し、嫡子の政憲が後を継いで関東に下向した[17][20]。同時に、扇谷上杉氏家宰の太田道真も隠居した[21]。
寛正3年3月、扇谷上杉持朝の謀反の噂が流れた[19][21][22]。義政は政知に持朝の保護を命じたが、更に三浦時高・千葉実胤ら扇谷上杉氏の重臣が隠遁した[20]。これらの出来事と前年の教朝の自殺、道真の隠居は連動しており、政知ら堀越公方が関わった政争であったとみられる[23]。この結果、政知は持朝の相模守護職を罷免したとされる[23]。また、義鏡が一連の事件に深くかかわり、持朝の守護職罷免も義鏡によるものとする見方もある[24][25]。
この混乱の収拾のためか、寛正3年頃に義鏡が幕府によって関東執事から解任され、失脚した[24][26][25]。義鏡の活動が同年後半から急激に少なくなり、義政の御内書も義鏡には出されなくなることからも、隠居させられたようである[25]。堀越公方と扇谷上杉氏ら関東諸将との争いを見た幕府は、扇谷上杉氏の側に立ち、義鏡を退ける処置に出たとみられている。このほか、義鏡の失脚は、京都から下向した面々を重用したことによる在地勢力の反発のほか、相模の諸将からの反発も理由とされる[24]。
義鏡が失脚した正確な時期は不明。峰岸純夫は義鏡の失脚を寛正3年(1462年)中とし[2]、家永遵嗣は寛正3年後半から寛政4年(1463年)の間[25]、黒田基樹は寛正5年(1464年)7月28日までの間とする[26]。また、義鏡は失脚後、武蔵の蕨地域に留まって支配し続けたとも[24]、 家臣と共に関東から帰京したとも[26]されるが、詳細は不明。いずれにせよ、義鏡の失脚により、その勢力が堀越公方から消滅するに至った[26]。
義鏡がいつ死去したのかも不明である。だが、没後と推定される文正元年(1466年)には、養子の義堯がその地位を継いでいる[24]。
没後
義鏡がいなくなった後、義政は再び斯波氏動員を考え、義敏を当主に戻そうと動き出す。対立した甲斐常治が死去したため、義敏を主とした遠征軍を再び作り出そうとした。だが、義廉がこれに反発、舅の山名宗全を頼ると、文正の政変が起こり、やがては応仁の乱へと発展していった。
また、義鏡に代わって、叔父の俊詮の子孫が御一家としての待遇を受けた。だが、この系統も応仁の乱以降に没落し、永正年間以降は京都から渋川氏の動向を伝える記録が見られなくなる[27]。