渡辺茂夫
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生い立ち
1941年、東京生まれ。生家の鈴木家は音楽家一家で、母の鈴木満枝はヴァイオリニストだった[1]。戦争中は、両親と共に父の故郷だった小樽市に疎開した[2]。
終戦後の1946年の夏、離婚状態に陥った満枝に連れられて帰京。戸籍の上で祖父の養子となり、満枝の姉・美枝とその夫でヴァイオリニストである伯父・渡辺季彦 (1909年11月22日 - 2012年6月10日)[3][4]に引き取られた[5]。同年10月より、季彦が自宅に開設していた音楽教室『渡辺ヴァイオリン・スタジオ』[注釈 1]でヴァイオリンを学び始める[6]。
天才少年の誕生
1948年(7歳)に港区立白金小学校に入学[7]。10月に戸籍の上で季彦・美枝夫妻の養子になり渡辺姓を名乗った。この年に早くも巖本真理より音楽的才能を絶賛され、12月に最初のリサイタル、翌年から毎年1回の定例コンサートを行う[8]。1949年には渡辺邦男監督の映画『異国の丘』にヴァイオリンを弾く少年役として出演した。創作面にも早くから関心を示し、音楽理論を石桁真礼生に師事しながら作曲活動や詩作にも着手し[9]、小学校の最終年次にヴァイオリン協奏曲、オペラ、ヴァイオリン・ソナタを作曲[10]。その作品は武蔵野音楽大学の教授だったクラウス・プリングスハイムに高く評価された[11]。
1954年(13歳)に暁星中学校に進学。5月、季彦の奔走により、帝国ホテルで来日中のヤッシャ・ハイフェッツに面会し[注釈 2]、演奏を披露して深い感銘を与え「百年に一人の天才[要検証]」と評される[10][注釈 3]。6月にハイフェッツからの招待を得て、両親に促されて渡米が決まる[12]。同年10月1日、イギリスの名指揮者マルコム・サージェントの指揮により、東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏[13][14]。
1955年2月、来日したダヴィッド・オイストラフを訪ねて演奏する[15]。同年3月、ジュリアード音楽院のPreparatory Division[注釈 4]の学部長より、「ハイフェッツ氏の熱心な推薦により」無試験入学が許可される[16]。アメリカ軍属、朝日新聞社、その他の個人といった各方面の支援者から経済的援助を受け、期限は2年間、演奏旅行には連れ出さないとの条件だった。身元引受先になったジャパン・ソサエティー[17]が法的後見人になった。暁星中学校を中退して一人の渡米だった[17]。
ジュリアード音楽院への留学
同年7月に14歳で飛行機にて渡米。カリフォルニア州で語学研修を受けるかたわら、奨学金を得て地元の夏季音楽講習会にも参加する。早くも天才ぶりと品のよい物腰から脚光を浴び、とりわけハンガリー出身のピアニストのジェルジ・シャンドールに目をかけられた。8月末にはモーリス・アブラヴァネルの指揮でベートーヴェンの協奏曲を演奏して、サンタバーバラ市の地元紙で絶賛される。講習会の告別演奏会にも出席して、自作のヴァイオリン・ソナタを披露する。
9月にニューヨークに到着し、ジュリアード音楽院でペルシャ出身のヴァイオリニストであるイワン・ガラミアン(アイヴァン・ガラミアン)に師事することが決定。日系人の家庭にホームステイを始めるが、後にガラミアン宅に同居する。
1956年(15歳)からニューリンカーンのハイスクールに通学。この頃から日本への連絡が途絶えがちになる[注釈 5]。職業音楽家を集めたプライベートの演奏会で、ハイフェッツの伴奏者として知られるエマヌエル・ベイのピアノ伴奏により、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャエフスキの≪協奏曲 第1番≫を演奏。出席者には、レナード・バーンスタイン、ピアティゴルスキー、レナード・ローズらの顔ぶれがあり、ハイフェッツのお気に入りの指揮者アルフレッド・ウォーレンスタインからは、世界一の演奏家になるとのお墨付きを得た。新学期の9月にはジュリアード音楽院で史上最年少の奨学生に選ばれ、さらに半額と規定されていた奨学金も全額支給される。秋にガラミアン宅を出て、ホームステイ先を変更。すでにガラミアンとそりが合わなくなっていた。
睡眠薬の大量服用
1957年2月、情緒不安定を訴え精神科に通院。春に再びホームステイ先を変更する。4月より助手としてジュリアード音楽院に残り、研究のかたわら治療を続ける。夏のヴァカンスでカリフォルニア州に行き、恩人ハイフェッツを訪ね、激賞された。9月にジュリアード音楽院に再入学するが、乏しい報酬と心もとない支援金により耐久生活を余儀なくされており、劣悪な住環境しか見つからなかった[注釈 6]。
異国の地で人間嫌いと疎外感がつのるようになり、自殺願望をほのめかすようにもなった。季彦・美枝は茂夫の急変を察知してジャパン・ソサエティーに緊急帰国を要請するも[18]、同協会は茂夫の治療優先の方針を崩さなかった。11月3日深夜、茂夫はベッドで悶え苦しんでいるところを部屋を訪れた友人に発見され、直ちに病院に運ばれた。未成年が購入禁止とされているはずの睡眠薬[注釈 7]を大量に服用しており、治療が始まった時点で服用後7時間が経過していたと推定された[19]。一命はとりとめたものの、不幸にも脳障害が残り、回復する見込みはなかった。11月5日に日本の家族に危篤を告げる電報が届いた[20]。
動機・遠因
米国のマスコミは失恋による自死を報じた[注釈 8]。一方養父の季彦は自殺説を頑なに否定している[20][21]。
ニューヨークのロックランド病院勤務の精神科医として1957年にジャパン・ソサエティーの紹介で茂夫を診察した竹友安彦[22][注釈 9]は、彼が会話中に突然、竹友が"suicide"(自殺)を「シーサイド」と発音したのは間違いで「スィーサイド」が正しいと言い出して頑として譲らなかった[注釈 10][23]ことに強い印象を受けた。そして茂夫が20歳以上年上の上位者(authority)に敬意を示すという基本的な人間関係の作法を心得ていないことを指摘した上で、こういったコミュニケーション能力の欠如が異文化の米国において周囲の人間との意思の疎通に支障をきたした遠因になっていたのでは、と解釈している[21]。
帰国後
1958年1月、家族の要請により日本に送還され、その後40年以上に亘って季彦・美枝の下で在宅療養を受け続けた。
1988年、季彦の門下生など関係者の尽力によって、かつての茂夫の演奏・肉声を収録したCD3枚組が自主制作・頒布された。1996年、このCDを2枚組にまとめた『神童 <幻のヴァイオリニスト>』[24]が東芝EMIから発売されて、大きな反響を呼んだ。そして「驚きももの木20世紀」など複数のドキュメンタリー番組が制作され、その悲劇的な人生と放送当時の姿[注釈 11]が紹介された。同年にはCD第二弾が発売されている。
死後も茂夫に関係するCDがいくつか発売されている。2009年、バイオリン2丁と楽譜など約300点の遺品が季彦から日本近代音楽館に寄贈された[10]。
演奏の特徴
ヴァイオリン教師である季彦[注釈 12]は、茂夫の演奏はガラミアンにつく前にすでにある程度の完成の域に入っていた、と言う。
茂夫はレオポルド・アウアーの奏法を基本として技術的にも優れた才を示していたにもかかわらず、ガラミアンがそれに理解を示さずに独自の厳しい指導でもって茂夫の奏法を自分のそれに転換させようとした重圧に苦しみ続けたといえる。