湯浅明善
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寛延元年(1748年)、岡山城下天瀬の屋敷に生まれる[2]。明和6年8月20日(1769年9月19日)、父の常山が蟄居を命じられ、父の禄5百石のうち、加禄分百石を除いた本知行の4百石を相続する[3]。最初は勝介と称し、番頭の上坂多仲[4]組の組士となり、その後、安永3年(1774年)に御城番、同8年(1779年)4月に水野主計組の鉄砲引廻役、同9年(1780年)9月に取次加役となる[5]。天明元年(1781年)に常山が死去し、翌年正月から父の通称であった新兵衛を襲名する。天明6年(1786年)には池田波門組に異動となり御評定所組頭に抜擢され[6]、また天明7年(1787年)以降は和気郡北方村の天神講に列席して農民教化にも努めた[7]。
寛政2年(1790年)、前年に出版した『備前孝子伝』を世子斉政とその兄弟に献上し、また求めにより幕府の主席老中松平定信および幕府勘定奉行へも献呈した[5][7]。寛政6年(1794年)、池田治政が藩主を引退し、斉政が跡を継ぐと、藩政改革を企て、翌寛政7年(1795年)6月に改革の建白書を提出[7]。斉政の藩政改革によって役職の大異動が行われる中、寛政8年(1796年)正月に町奉行兼寺社奉行に任命され[8]、御野郡上伊福村の真言宗常福寺を再興するなどしたが[5]、改革反対派による反発が強くなり、寛政10年(1798年)3月に、日蓮宗宗号の取り扱いにミスがあったという理由で奉行職を罷免され、翌年8月20日に病死した[7][9]。