池田宗政
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享保12年(1727年)江戸藩邸に第3代藩主・池田継政の長男として生まれる。母は仙台藩主伊達吉村の次女・村子(和宮、心定院)。幼名は峯千代、通称は茂十郎。初名は尚政。[1][2][3][4]
幼少期より水戸の鶴千代(徳川宗翰)、加賀の勝丸(前田宗辰)、出雲の幸千代(松平宗衍)と共に四君子あるいは四公子と称され、聡明で知られた[1][4]。
元文2年(1737年)3月、将軍吉宗に謁し、元文5年12月11日(1741年1月27日)に吉宗御前で元服し、吉宗より偏諱を受け宗政に改名し、従四位下弾正大弼に叙任される[5][4]。
寛延元年(1748年)正月、福岡藩主黒田継高の長女・藤子と結婚[4][6]、10月伊予守に改め、12月に侍従に就任[7][8] 。
宝暦2年12月6日(1753年1月9日)、父の隠居により跡を継ぎ[9]、翌宝暦3年11月にはじめて国元に就いた[4]。
岡山藩藩学の充実に努めており、また自身は書画に優れ、恒嶽を号として作品を残しているほか、俳諧や和歌もなし、俳名を流霞楼燕々子と称した[4][10]。宗政は岡山藩主の祈祷寺である常住寺に自作の書画を寄進し[11]、信仰していた餘慶寺(瀬戸内市邑久町北島)に正室藤子の打掛を法衣にして寄進している[要出典]。
宝暦14年(1764年)3月14日、父に先立って38歳で病死した。跡を長男の治政が継いだ[12]。