満洲国皇宮
中国の博物館
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造営地選定
執政府
宮内府
1934年(康徳元年)3月1日の帝政移行に伴い、執政府は宮内府と改められた。宮内府は溥儀が政治活動を行う「外廷」と日常生活を過ごす「内廷」に分かれ、現在は「偽満皇宮博物院」として一般に公開されている。
外廷(皇宮)の主要な建物として、「勤民楼」、「懐遠楼」、「嘉楽楼」があり、勤民楼では溥儀が公務を執り、1934年(康徳元年)3月1日の皇帝即位式をはじめとする各種の典礼が行われた。懐遠楼には宮内府の事務部門と清朝歴代皇帝の祭祀を司る「奉先殿」が設けられた。内廷(帝宮)は溥儀とその家族の生活区域で東西両院に分かれており、西院に「緝煕楼」、東院に仮宮殿「同徳殿」が建設された。緝煕楼は溥儀と皇后婉容の住居とされ、日常生活を過ごしていた。
また、この付近には宮内府大臣の庁舎もあった。
仮宮殿

新宮殿建設が長期間となることから、宮内府敷地内に仮宮殿が建設された。東洋式外観の仮宮殿の設計は、営繕需品局営繕処宮廷造営科長の相賀兼介が担当し、施工は戸田組が行った。1937年(康徳4年)施工、1938年(康徳5年)末に竣工し「同徳殿」と命名されたが、関東軍の盗聴を恐れて溥儀自身は使用しなかった。後に同徳殿には側室の李玉琴(福貴人)の住居が置かれた。また、同徳殿の南側に満洲民族の故地である長白山の風景をイメージした築山が築かれ、築山林泉回遊式庭園が造られた他、プールや防空壕、後述する建国神廟などが周辺に設けられた。更に同徳殿の背後には「蔵書楼」と呼ばれる三階建ての書庫が建てられていた。
建国神廟
新宮殿
かつての杏花村に定められた皇宮造営地は、東西約450m、南北約1200m、馬蹄形で総面積は51万2000m²。南側は興仁大路に面し、東西はそれぞれ東万壽大街と西万壽大街で囲われている。正門前から順天大街が南へ延びており、官庁街を形成していた。造営(設計・施工)は営繕需品局営繕処宮廷造営課[5]が担当し、造営予算は約1400万圓、8ヵ年連続事業として1938年(康徳5年)9月に着工して建設が進められた。
宮廷用地は3つの区域から構成されており、南部の正門外広場である「順天広場」、中部の政殿を中心とする「内廷」、北部の西洋風回遊式庭園の「宮苑」に大別された。政殿は東西220m、高さ31m、鉄骨鉄筋コンクリート造り2階建で、屋根瓦は清朝宮殿と同様の黄金色の瑠璃瓦が葺かれ、外壁は花崗石張り、内装は大理石仕上げの壮大な東洋式建築物だった。また計画では政殿の両側に宮内府と尚書府を配し、更に中庭を隔てて本殿が築かれる予定だったが、これは未着工に終わっている。一方政殿は構造物は完成したものの、戦争の激化による建築資材不足に配慮して1943年(康徳10年)1月に建設が中断された。この建物は中華人民共和国が設計図を元に4階建で完成させて長春地質学院教学楼として使われ、「地質宮」と通称された。現在は吉林大学地質宮博物館として一般公開されている。
また皇宮造営地に隣接して、国務総理大臣官邸等が建設されている。

