源氏太郎
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1929年1月28日に赤坂の和菓子屋の四男として生まれる[1][2]。父母も三味線や尺八などの演奏を好み、歌舞音曲を身近に育つ[1][2]。赤坂小学校の卒業間もなく太平洋戦争が始まり、兄3人が出征した中で生活を支えるために海軍省に給仕として勤め、夜には麹町商業学校夜間部に通った[1][2]。同時期に福島常雄に師事してハーモニカを学ぶ[1][2]。
終戦後に芸人となり、1946年から進駐軍の慰問に参加する[1][2]。三味線、尺八、ハーモニカの演奏にタップダンスも取り入れた八人芸が評価され、同時期に源氏太郎の芸名を使い始める[1][2]。同芸名は、母から遠縁に当たると聞かされた源氏鶏太に由来する[2]。芸人としては独学で芸を身に着けたが、1950年代に進駐軍需要が一服したのを機に改めて師匠を探し、1952年に春風亭小柳三に弟子入りし、落語家として春風亭小柳五と名乗る[1]。
1954年に春風亭小柳三から独立して再び源氏太郎と名乗るが、芸風の似た都上英二から苦情が寄せられ、これを解決するため、1956年に都上英二の師匠である東喜代駒の門下に入る[1][3]。経緯あっての入門だったが、東喜代駒との師弟関係は良好であり、1971年に芸名を東笑児に改名し、東喜代駒が亡くなる1977年まで同芸名を用いる[1][2]。
東喜代駒の没後に芸名を源氏太郎に戻し、妻の源氏このみと夫婦漫才を演じたほか、太夫才蔵スタイルの古典的な萬歳も披露するようになる[1][2]。寄席や地方巡業を中心に活動したが、1970年代後半から1990年代にかけては花王名人劇場などのテレビの演芸番組にも出演している[1][3]。1982年には柴田紀和夫とともに長崎寄席を発足する[1]。娘の源氏うらら(後に三増巳也と改名)も曲独楽芸人であり、家族揃って芸を披露することもあった[1][2]。
晩年は足を悪くして椅子に座って芸を披露するようになったが、東京演芸協会所属芸人として2018年頃まで活動を続ける[1]。2019年3月26日に90歳で亡くなる[1]。