寛弘7年(1010年)頃、誕生。従五位下・下野守に任官している。
永承年間には六条斎院禖子内親王歌合に参加したり、橘資成と歌合を共催したりと[1]、文化人としての側面も残る。
『扶桑略記』によると、康平7年(1064年)に上総介・橘惟行と諍いを起こして、その館を焼き払った挙句に、上総国の民を虐殺したことで、惟行に訴状されて、同年9月に佐渡国へ流罪されるも豪雪のために困難となり、同年12月に改めて土佐国に流罪になった、という記述が残るなど、粗暴な一面もあったという[1]。
二年後の7月に恩赦で、許されて、帰京しているが、翌月に没した。