溝延氏
From Wikipedia, the free encyclopedia
戦国時代
4代満教が出羽吉川氏から入るも、戦略上の重要度を増した白岩城に移ると家臣の安孫子氏が実権を握った[1]。永禄4年(1561年)の慈恩寺舞童帳によれば、寒河江城主兼広・白岩城主宗広とともに溝延城主雄広[2]も旦那の一人とされており、一定の権威があったことをうかがわせる[3]。また、天正2年(1574年)天正最上の乱においては寒河江氏居城寒河江城攻略に加担するなど、独自性を強めた。しかし、系図(『天文本系図』および『安中坊系図』)と古文書(『舞童帳』や『はとう物覚書』)に白岩城主と溝延城主の混同や差異が見られるなど今後解明されるべき課題は多い。
天正12年(1584年)、出羽統一を図る山形城主最上義光に攻められ、寒河江大江氏とともに滅亡した。家老の安孫子氏(溝延長老(こうえんちょうろう)と呼ばれる)は最上氏の詮議を逃れて慈恩寺に隠れるも、最上院で自害した。溝延城跡付近には現在溝延城址公園が整備されている。