溝部洋六
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人物像
資性闊達にして明敏[1]、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが[2]、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。同期には品川一郎(優等卒業、黄海海戦において戦死。三笠に「勇士戦死のところ」の銘版あり)、米内光政、佐久間勉らがいる。
同郷堀悌吉中将(海兵32期首席卒業)については、その父親は悌吉が医者に成る事を希望していたり、中学の教員も合格を危惧していたが、とにかく洋六の例を話して海軍兵学校を受験したという[3]。
自らの遠洋航海が終了した翌年、30期生の遠洋航海に候補生指導官として厳島乗船。また明治37年12月20日、32期堀悌吉以下191名(少尉候補生)の振天府拝観の付添いを命じられる等[4]、指導力もあり後輩から人望のある性格であった。兵学校時代の明治32、33年の両度にわたり品行善良章を受ける。
中学時代は「高山彦九郎」を以って自ら任じていた事や「海へ」等の著書を出版している事などから海大卒業後は、海国思想の啓発者、普及家への道を目指していた。また軍人には似合わず全く酒を嗜まなかった。
竹田市広瀬神社に納められている広瀬中佐佩用の長剣は、嘗て軍神広瀬の精神をつぐものとして、広瀬家より溝部に譲与された。しかし溝部の没後は溝部家より同神社に奉納された。
年譜
- 1901年(明治34年)12月10日-海軍兵学校卒業 卒業成績順位125名中第1位。
- 12月14日-任少尉候補生。
- 1902年(明治35年)2月-3等海防艦比叡乗組。練習艦隊(比叡、金剛)遠洋航海出発 横須賀~マニラ~木曜島~タウンズビル~メルボルン~ホバート~オークランド~スバ~釜山~馬山浦~横須賀 。
- 8月25日-帰着
- 1903年(明治36年)1月23日-任海軍少尉。「厳島(艦長松本和、副長佐藤鉄太郎)」に30期生の遠洋航海の指導官として乗組み。
- 2月-南洋諸島、豪州及び清韓諸港に向け巡航開始。
- 8月-横須賀帰着。
- 11月-「富士(艦長松本和)」乗組を命じられる。
- 1904年(明治37年)2月6日-佐世保発艦[5]。
- 1905年(明治38年)1月12日-吾妻分隊長心得[6]を命じられる。1月21日-青森にて乗艦。
- 1906年(明治39年)6月-砲術練習所首席卒業。成績優等にて銀時計を賜る。その後「朝日」,「鹿島」,「呉海兵団」分隊長を命じられる。
- 1908年(明治41年)-4月「高千穂」砲術長兼分隊長[7]。9月病気のため休職、郷里の別府温泉にて療養。この間、四国八十八ヶ所を巡礼し、明治45年3月結願。
- 1911年(明治44年)-6月 復職。「出雲」分隊長を命じられる。
- 1912年(明治45年)-「沖島」分隊長兼佐世保海兵団分隊長を命じられる。
- 7月29日-佐々木チヨ嬢[8]と結婚。
- 1912年(大正元年)-任海軍少佐。命薩摩分隊長、続いて佐世保鎮守府軍法会議判士長に補せらる。
- 1913年(大正2年)12月-海軍大学校に入校。
- 1914年(大正3年)-「別府発展」に関する提言[9]。
- 1915年(大正4年)12月-海軍大学校(甲種13期)を首席卒業、卒業成績順位17名中第1位。卒業とともに「比叡」(艦長加藤寛治大佐)の砲術長を命じられる。
- 1916年(大正5年)-9月軍令部出仕。臨時海軍軍事調査会(委員長山屋他人中将)に関わる。
- 1917年(大正6年)4月-任海軍中佐。
- 6月-兵資調査会委員(委員長栃内曽次郎)。
- 10月末-軍事に関する一般事項視察のため、米、英、仏、伊、希国等に関中佐らと出張。
- 1918年(大正7年)5月-欧州より帰朝。軍令部出仕兼海軍大学校教官
- 10月-27日、浦塩派遣の任を解かれ帰京した加藤寛治宅を訪問[10]
- 12月-軍令部参謀兼海軍大学校教官
- 1919年(大正8年)10月-海軍大演習青組審判官(観艦式は横浜沖)。戦艦「伊勢」にて審判するも体調を崩す。
- 11月6日-任海軍大佐。病没 享年38。
栄典
著書等
- 著書
- 「海国日本」(1919.8 同文館)
- 「海へ」(1914 博文館 題字は上村彦之丞、序文は佐藤鐵太郎記す)
- 「国防の本義」(1919 大鐙閣)
- 論文
- 「商権と海上権力」(時事新報 1919.1.3)
- 「海軍拡張の急務」(亜細亜時論 1917.10)
- 「海上より見たる現欧州戦役」(地学雑誌 1917.7)
- 「海上権力と国家との関係」(大日本国防義会会報 1917.7)
- 作詞
- 「ボートの歌」(作曲 沼田軍楽師)
- 「軍艦薩摩軍歌」(作曲 沼田軍楽師)
- 「日の本っ國」(作曲 瀬戸口藤吉軍楽長)
- 「海軍執銃体操軍歌」(作曲 田中穂積軍楽長)