佐藤鉄太郎
日本の軍人、政治家 (1866-1942)
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略歴
山形県鶴岡市出身。実父は庄内藩士・平向勇次郎。佐藤安之の養子となる。旧制鶴岡朝陽学校より海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。
日清戦争に砲艦「赤城」航海長として参加。黄海海戦の際、艦長の坂元八郎太が戦死したため代わりに艦の指揮を執る。その後、海軍大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊先任参謀として参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行[4]。 日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝利に貢献した。
日露戦争後、海軍大学校選科学生在籍のまま同時に海軍大学校教官に任命されるという、一見すると矛盾のように見える人事を拝命するが、当時は海軍大学校が開設されて日も浅いことから学生のまま他方自己の専門分野を他の学生に教授する事例も存在した。
軍令部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず大正12年(1923年)に予備役に編入される。その後は学習院教授を経て1934年(昭和9年)、勅選の貴族院議員となる。
日本海軍のイデオローグ
山本権兵衛は陸主海従の国防方針を海主陸従に転換すべく画策したが、その一策として1899年(明治32年)に佐藤鉄太郎を一年半イギリスへ派遣し、次いでアメリカへ8ヶ月駐在させた。佐藤は留学前からアメリカ海軍の戦略家マハンの著作を愛読していたが、これらの留学と戦史調査によりマハンの影響を大きく受けた。
大日本帝国海軍も1900年(明治33年)ごろからフランスやイギリスへの派遣要請に応じていたが[注釈 1]、佐藤は帰国後に海軍大学校の教官となり、その講義をまとめた『帝国国防論』を著述して海軍大臣の山本権兵衛より明治天皇へ献上し、また、1907年(明治40年)に『帝国国防史論』を著述し、「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として国体を永遠に護持しなければならない」などと述べた[5]。こうして各界および世論を涵養し、海軍予算の獲得や制度的に海軍を陸軍並へ整備することを有利にした。また「日本のマハン」と呼ばれた[6]。
1941年(昭和16年)5月には大日本兵器富岡製作所が地方分散のため山形県に山形製作所を開設し、逓信省航空局の山形飛行場を併設していたが、1942年(昭和17年)3月には、横浜に本社があった日本飛行機(ニッピ)が山形県に敷地58,750坪になる飛行場付きの山形製作所を完成し、山形県北村山郡神町の神町海軍航空基地の開設事業が始まったが、佐藤は同年3月、入れ替わるように75才で没している[7]。山形製作所は最盛期には従業員3,000名が働き、特攻隊にも使用された練習用の複葉機である九三式中間練習機(布製の翼でオレンジ色の機体であったため"赤トンボ"と呼ばれた)を月産40機ほど生産しており、1944年(昭和19年)12月15日には神町海軍航空隊が開隊して特別攻撃隊の基地となった[8]。アメリカ軍の長崎原爆投下の直前だった1945年(昭和20年)8月9日早朝、艦載機グラマンなどの空襲を受けて破壊された[9]。
人物像
- 幼い頃からどうしても海軍に入りたいと意思を持っていた佐藤は何とか両親を説得して上京することになる。しかし、当時の東北地方では戊辰戦争の際に朝敵とされたことから中央に対して好印象を持つ者が少なく、通っていた学校の教師などには何も告げず休み時間にこっそり学校を抜け出してそのまま上京した。
- 兵学校時代の確執から広瀬武夫と犬猿の仲であったが後に和解した。
- 海軍兵学校同期の小笠原長生とは、同じ伊庭想太郎の剣道道場に通っていたため交友があり、佐藤の妻・艶子は小笠原長生の妹である。
- 宗教は日蓮宗[2]。日蓮主義に共鳴する[3]。晩年は宗教に傾倒し、財産を喜捨したため家族を困惑させた[10]。住所は東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺[2]。
主要著述物
- 講演
- 『日本国体と日蓮主義』。佐藤鉄太郎 述[他] 博文館、1918年。
- 『久遠の生命』。佐藤鉄太郎述。日新閣、1919年。
- 『立正安国主義』。佐藤鉄太郎述。東盛堂、1920年。
- 『仁者必ず勇あり : 日蓮主義』。佐藤鉄太郎述。東盛堂書店、1920年。
- 『世界に於ける日本国民性の本領』。佐藤鉄太郎述。京都中学校、1921年。
- 『我が日蓮主義』。佐藤鐵太郎述 忠誠堂、1927年。
- 単著
- 『帝国国防論』。佐藤鉄太郎、1902年。
- 『帝国国防史論 上』。東京印刷、1910年。上巻(原書房) ISBN 4-562-00375-8 C3331
- 『帝国国防史論 下』。東京印刷、1910年。下巻(原書房) ISBN 4-562-00376-6 C3332
- 『帝国国防史論抄』。東京印刷、1912年。
- 『国防策議』。佐藤鉄太郎、1912年。
- 『波上の日本』。実業之日本社、1917年。
- 『我が日蓮主義 』(縮刷名著叢書 第39編)。佐藤鉄太郎 著[他] 東亜堂書房、1917年。
- 『日本の国体美 (国民思想涵養叢書 ; 第4編)』。大鐙閣、1919年。
- 『剛健主義の日蓮』。小西書店、1919年。
- 『久遠の生命 8版』。佐藤鉄太郎 述 大野書店、1922年。
- 『国民の自覚を説きて同胞諸君に訴ふ (国民叢書 ; 第1巻)』。誠文堂、1925年。
- 『建国の精神と国民の使命』。大宝社書店、1927年。
- 『国防新論』。民友社、1930年。
- 『吾等は日本人なり』。佐藤鐵太郎 著 民友社、1930年。
- 『吾等の踏むべき次の大道』。奉仕会、1930年。
- 『信仰の体験』。民友社、1930年。
- 『国難に叫ぶ』。民友社、1932年。
- 『日本の将来』。奉仕会本部、1934年。
- 『日本憲法の特色』。奉仕会本部、1935年。
- 『我國體の神髄』。佐藤鐵太郎 著 奉仕會本部、1935年。
- 『思想対策精神国防 : 永遠性の非常時に備へよ』。佐藤鉄太郎、1936年。
- 『我等の日本と世界の将来』。奉仕会、1937年。
- 『日本民族の世界的使命』。奉仕会本部、1938年。
- 『世界の平和と人類の康福』。奉仕会本部、1939年。
- 『皇紀二千六百年を迎へて』。奉仕会、1940年。
- 帝国国防新論
- 大日本海戦史談
- 海軍戦理学
- 新版『戦略論大系9 佐藤鉄太郎』戦略研究学会編・石川泰志編著(芙蓉書房出版、2006年)
- 共著
- 『海軍戰理學補遺 : 海軍中將佐藤鐵太郎遺稿』。佐藤鐵太郎 [著] 海軍大學校、1943年。
年譜

- 1866年(慶応2年)8月22日 - 出羽国鶴岡城下(現:山形県鶴岡市)にて誕生。
- 1884年(明治17年)9月4日 - 海軍兵学校入校(入校時成績順位51名中第6位)。
- 1885年(明治18年)7月15日 - 学術及び品行優等章受章。
- 1886年(明治20年)
- 1887年(明治21年)
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)12月15日 - 砲艦「鳥海」航海長心得。
- 1891年(明治24年)8月6日 - 海軍大学校丙号学生。
- 1892年(明治25年)
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)4月1日 - 海軍省軍務局軍事課僚。
- 1898年(明治31年)6月28日 - 任 海軍少佐。
- 1899年(明治32年)5月13日 - 在イギリス日本公使館附駐在武官。
- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)1月25日 - 海軍大学校選科学生。
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)9月25日 -2等巡洋艦「宗谷」艦長。

佐藤、下村延太郎
- 1909年(明治42年)10月1日 - 1等巡洋艦「阿蘇」艦長。
- 1910年(明治43年)9月26日 - 海軍大学校教官。
- 1911年(明治44年)5月20日 - 海軍大学校教頭兼教官。
- 1912年(大正元年)12月1日 - 任 海軍少将・兼 海軍省軍令部第4班長。
- 1913年(大正2年)12月1日 - 第1艦隊参謀長。
- 1914年(大正3年)4月17日 - 海軍省軍令部第1班長 兼 海軍大学校教官。
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)12月1日 - 任 海軍中将。
- 1920年(大正9年)8月16日 - 舞鶴鎮守府司令長官。
- 1922年(大正10年)12月1日 - 将官会議議員。
- 1922年(大正11年)4月10日 - 待命。
- 1923年(大正12年)3月31日 - 予備役編入。
- 1926年(大正15年)7月13日 - 後備役編入。
- 1931年(昭和6年)7月13日 - 退役。
- 1934年(昭和9年)7月3日 - 貴族院勅選議員(- 1942年3月4日[11])。
- 1942年(昭和17年)- 3月4日 - 死去。享年75。
栄典
- 位階
- 1891年(明治24年)12月14日 - 正八位[12]
- 1893年(明治26年)1月31日 - 従七位[13]
- 1895年(明治28年)11月26日 - 正七位[14]
- 1898年(明治31年)9月10日 - 従六位[15]
- 1902年(明治35年)12月25日 - 正六位[16]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従五位[17]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 正五位[18][19]
- 1916年(大正5年)12月28日 - 従四位[18][20]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正四位[18][21]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 従三位[18][22]
- 1942年(昭和17年)3月4日 - 正三位(没時陞叙)[23]
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1895年(明治28年)11月18日 | 勲六等瑞宝章[18][24] | ||
| 1895年(明治28年)11月18日 | 功五級金鵄勲章[18][24] | ||
| 1895年(明治28年)11月18日 | 明治二十七八年従軍記章[25] | ||
| 1901年(明治34年)11月30日 | 勲五等瑞宝章[26] | ||
| 1905年(明治38年)5月30日 | 勲四等瑞宝章[18][27] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲三等旭日中綬章[18][28] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 功三級金鵄勲章[28] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[28] | ||
| 1915年(大正4年)5月29日 | 勲二等瑞宝章[18] | ||
| 1915年(大正4年)11月7日 | 旭日重光章[18][29] | ||
| 1915年(大正4年)11月7日 | 大正三四年従軍記章[29] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章(大正)[30] | ||
| 1920年(大正9年)11月1日 | 戦捷記章[31] | ||
| 1921年(大正10年)7月1日 | 第一回国勢調査記念章[32] | ||
| 1928年(昭和3年)11月10日 | 勲一等瑞宝章[18][33] | ||
| 1940年(昭和15年)8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[34] |
- 外国勲章等佩用允許
家族・親族
- 佐藤家
- 平向勇次郎 - 父
- 親戚
