滝川一明 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代前期 - 中期生誕 寛永13年(1636年)死没 享保3年閏10月16日(1718年11月7日)別名 通称:三九郎 凡例滝川 一明時代 江戸時代前期 - 中期生誕 寛永13年(1636年)死没 享保3年閏10月16日(1718年11月7日)別名 通称:三九郎戒名 無乀墓所 東京都渋谷区恵比寿南の松泉寺幕府 江戸幕府 書院番主君 徳川家綱、綱吉氏族 滝川氏父母 父:滝川一積、母:真田昌幸の娘(趙州院)妻 真田幸道の叔母子 一政養子:一重テンプレートを表示 滝川 一明(たきがわ かずあきら)は、江戸時代前期から中期の旗本。通称は三九郎。滝川一益の曾孫[1]。 滝川一積の長男として寛永13年(1636年)に生まれた[注釈 1]。母は父の正室である真田昌幸の娘(趙州院)[1][注釈 2]。父は1000石を領し江戸幕府使番を務める旗本だったが、寛永9年(1632年)に改易されて浪人となっており[2]、明暦元年(1655年)に京都で没した[3]。 寛文3年(1663年)7月、徳川家光の十三回忌法要の恩赦により一明は父の罪を許されて幕府に召し出され[4][注釈 3]、同年12月に廩米300俵を与えられた[5]。翌4年(1664年)、書院番の番士となり、宝永4年(1707年)に番を辞して小普請に入るまで40年以上の長きにわたって勤めた[1]。 一明の妻は母の大甥(母の長兄真田信之の孫)である松代藩主真田幸道の叔母(真田信之の娘?)で、寛文10年(1670年)に幸道の妹(信之の子信政の娘)が浜松藩主青山忠雄と結婚するに当たって同じく信政の娘を妻とする小出有重(和泉国陶器藩主)と並んで親類として招かれている記録がある[6]。 正室との間に嫡男助九郎一政がいたが、病のために家督を継げなくなり、真田幸道の従弟(松代藩重臣鎌原重俊と真田信政の娘との間の子)である主馬一重を松代藩真田家中から養子に迎え、宝永5年(1708年)に致仕して家督を一重に譲った[1]。 隠居号を安心と称し、享保3年(1718年)に83歳の高齢で没した[1][注釈 4]。 旗本滝川三九郎家は一重以降も幕末の当主三九郎が慶応4年(1868年)4月の江戸城開城後の混乱の中で自宅で斬殺されたことが松代藩の江戸藩邸から国許に急報され[7]、その跡目について滝川家の用人から松代藩の留守居役に相談がある[8]など、明治維新まで松代藩真田家と親密な関係を保った。 参考文献 『寛政重修諸家譜』巻649 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 『諸家系譜』収載の滝川家呈譜では正保元年(1644年)生まれ[2]。 ↑ 趙州院は関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)以前に初婚している[3]ので、系図の記載通りであれば相当な高齢出産となる。 ↑ 『寛政重修諸家譜』には「めされて御家人に列し」とあるが[1]、召し出されてすぐに旗本役の書院番に番入りしているとおり[2]、この場合は御目見以下の将軍直臣を意味する歴史用語としての御家人ではない。 ↑ 『諸家系譜』収載の滝川家呈譜では享年76[2]。 出典 1 2 3 4 5 6 『寛政重脩諸家譜』 第4輯、國民圖書、1923年、446頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/232。 1 2 3 4 『諸家系譜』 滝川・滝・滝野・滝村・立花。https://www.digital.archives.go.jp/img/2541108。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)78コマ。 1 2 『新編信濃史料叢書』 第15巻 (真田家御事蹟稿)、信濃史料刊行会、1977年、150-151頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9537448/82。 ↑ 『徳川実紀』 第參編、経済雑誌社、1904年、470頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917845/241。 ↑ 『徳川実紀』 第參編、経済雑誌社、1904年、487頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917845/249。 ↑ 『新編信濃史料叢書』 第17巻 (真田家御事蹟稿)、信濃史料刊行会、1977年、383-386頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9537547/197。 ↑ 『越奥戦争見聞録,朝陽館漫筆』 巻之33,34、北信郷土叢書刊行会、1935年、112頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194335/66。 ↑ 「信濃国松代真田家文書目録(その二)」『史料館所蔵史料目録』第37集、1983年3月、110頁。 Related Articles