烏重胤

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烏 重胤(う ちょういん、761年 - 827年)は、唐代軍人は保君[1]

河東の将の烏承玼の子として生まれた。はじめ潞州の牙将となった。元和年間、王承宗が反乱を起こすと、官軍の討伐を受け、昭義軍節度使の盧従史が軍を出したが、ひそかに反乱軍と通謀していた。ときに神策行営の吐突承璀は盧従史の軍と近い位置にいたため、重胤と謀って、盧従史を帳下で捕縛した。この日、重胤が潞州に戒厳を布くと、潞州の軍であえて動く者はいなかった。憲宗がその功を賞賛し、重胤は潞州大都督府左司馬に任じられ、懐州刺史に転じ、河陽三城懐州節度使を兼ねた。張掖郡公に封じられた。淮西の呉元済を討つにあたって、重胤は前線に動員された。官軍が淮西を討つこと三年、重胤は李光顔と前後呼応して戦い、大小百余戦して、呉元済を破った。検校尚書右僕射を加えられ、司空に転じた。邠国公に進封された[2][1]

元和13年(818年)、重胤は鄭権に代わって横海軍節度使となった。重胤は景州を廃止して弓高県とし、帰化県を廃止して徳州に編入するよう上奏して聞き入れられた[2][3]

長慶元年(821年)、成徳軍の王廷湊や盧龍軍の朱克融が反乱を起こすと、重胤は深州に軍を駐屯させたが、官軍の配置が時宜を失しており、反乱軍側を優位とみなして、軽々しく進軍させることはできないと、情勢を観望していた。穆宗は反乱鎮圧を急いで、重胤に代えて杜叔良を横海軍節度使に任じた。重胤は検校司徒となり、興元尹・山南西道節度使となった。長慶2年(822年)、長安に召還されて、本官のまま鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹濮観察等使となった。大和元年(827年)、李同捷滄州に拠り、父の李全略の横海軍節度使の位を世襲したいと請願し、朝廷は聞き入れなかったが、兗海節度使に転じた。重胤は太子太師・同中書門下平章事を加えられ、滄景節度使を兼領した[4][5]。11月8日、重胤は死去した[6]。享年は67。太尉の位を追贈された。は懿穆といった[7][5]

子の烏漢弘が後を嗣ぎ、左領軍衛将軍となった[7][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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