要害山城
山梨県甲府市にあった城
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歴史
『高白斎記』によれば、築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月である。武田氏は前年に居館を石和の川田館(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれた。
同年には駿河の今川氏勢の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、大井夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産した。
勝頼期の天正4年(1576年)6月1日付武田家朱印状によれば、武田氏は要害山城から西方に位置する帯那郷(甲府市上帯那町・下帯那町)に対して要害城の普請への召し出しを命じており、帯那郷への河除(堤防普請)と他の諸普請の一切を免除している。『甲陽軍鑑』『甲斐国志』によれば、武田氏時代の城番は駒井次郎左衛門・武藤山城・駒井昌直(右京亮)が務めた[4]。
天正10年(1582年)3月の織田信長の武田征伐による甲斐武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。文禄年間の修築を示す遺構として穴太積みの石垣が見られる[4]。
史跡指定
熊城
アクセス
ギャラリー
- 竪堀・土塁跡
- 曲輪跡
- 門跡
- 山頂部の本丸跡
- 東郷平八郎揮毫による「武田信玄公誕生之地」碑
