熊川良太郎

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生誕 (1902-01-29) 1902年1月29日
群馬県
死没 (1965-08-08) 1965年8月8日(63歳没)
神奈川県
墓地 富士霊園(御殿場市)
国籍 日本の旗 日本
くまかわ りょうたろう
熊川良 太郎
生誕 (1902-01-29) 1902年1月29日
群馬県
死没 (1965-08-08) 1965年8月8日(63歳没)
神奈川県
墓地 富士霊園(御殿場市)
国籍 日本の旗 日本
出身校 所沢陸軍飛行学校
肩書き
  • 一等飛行機操縦士
  • 中華航空北京支所長
  • 群馬県議会議員
栄誉
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熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう[1]1902年明治35年〉1月29日 - 1965年昭和40年〉8月8日)は群馬県出身の飛行家。後に群馬県議会議員。栗村盛孝と共に青年日本号を操り、日本からローマまでの欧州訪問飛行を成し遂げた。レオポルド2世勲章及びレジオンドヌール勲章受賞[2]

1902年(明治35年)1月29日、吾妻郡嬬恋村の大字今井にて農業を営む熊川澗八郎と母なほの長男として生まれる[2]。弟が一人おり、家は代々上田藩士。元は藩主と同じ真田姓を名乗っていたが、後に熊川に移って姓も地名に合わせ改称したとされる[3]

勉学での立身を考えた良太郎は東京の学校への進学を望んでいたものの、父は許可を与えなかった[注釈 1]。高等小学校の卒業後に思い詰めて東京へ家出し、連れ戻されてもなお諦めぬ様子に渋々許しが出る。再び東京へ出た良太郎は神田神保町の叔父の家に寄宿して英語学校へ通ったが、脚気に罹り療養のためやむなく実家へ戻った。その後、病が癒えると2年間真剣に農業を手伝い、今度は父も上京を止めなかった[5]。倍率約15倍の選考を潜り抜け航空局委託学生の第2期生となり、1922年(大正11年)所沢陸軍飛行学校に入学。二等飛行士の免許[6]を取得し、1923年(大正12年)に卒業した。ちょうどこの年に操縦科を復活させた日本飛行学校の教官[7]となり、多くの練習生を育てている。1924年(大正13年)9月7日には賀陽宮恒憲王が日本飛行学校を訪問。教官の小川一等飛行士と前田あさの練習生、そして熊川良太郎の3名が御前飛行を行った[注釈 2]。1925年(大正14年)9月、日本飛行学校と同じ立川飛行場内に御国航空練習所[注釈 3]が開所。その後良太郎も武彦王の懇請を受け、日本飛行学校校長・相羽有の了解を得て御国の教官となる[10]

1925年(大正14年)3月には専修大学経済専科を卒業[2]。1926年(大正15年)7月に御国航空練習所が閉鎖となり、同年11月3日の明治神宮体育大会の飛行競技[注釈 4]には山階宮航空部の所属として飯島勝一機関士とペアで参加している[9][11]。1930年(昭和5年)に法政大学航空研究会の講師となり、同研究会が企画した欧州訪問飛行においては指導教官として経済学部二年生・栗村盛孝と共に欧州へ向かった[注釈 5]1931年(昭和6年)5月29日に羽田国際空港を出発した青年日本号は、日本海を越えユーラシア大陸上空を西へ飛行し、同年8月1日にロンドン、10日にパリ、31日に最終目的地であるローマに到着[13]。3度の不時着もあり、当初の37日間の予定が約2ヶ月遅れのゴールであった。所要日数は95日、飛行時間は126時間53分、距離は13,671km。ローマでの歓迎会にはイタリア首相の秘書官や当時駐イタリア大使だった吉田茂も出席。首相・ムッソリーニとの会見にローマ法王・ピウス11世への謁見も準備されるなど官民あげて大いに歓迎された[14]

なお、この飛行を称えてフランス政府より2人にレジオンドヌール勲章が、ベルギー政府からは良太郎にレオポルド2世勲章、栗村盛孝に王冠勲章英語版が贈られた[注釈 6]。同年9月に文部大臣及び陸軍大臣の表彰[2]も受ける。9月5日にローマを発ってナポリから日本郵船の鹿島丸で愛機と共に海を渡り、10月10日横浜に帰港[14]。同月14日に帝国飛行協会より緑色有功章が授与された[16]

その後日本電報通信社に入社。航空部主任兼パイロットとなり、満州事変勃発で騒がしくなっていた現地へ飯島機関士と共に派遣された。ここで機上撮影や原稿及び写真の空輸などを担当していたが、パイロットを探していた読売新聞社が良太郎に目を付ける。交渉の結果として両社に籍を置くことになったが、一年足らずで読売の専属となっている。1934年(昭和9年)5月には会社で使用する新しい航空機選定のためアメリカに出張[17]し、スチンソン・リライアント英語版に決定。同年7月20日から22日にかけて、スチンソンの工場があるデトロイトよりロサンゼルスまでおよそ3,800㎞の大陸横断飛行を行って見事成功させた[18]。ロスでは胴上げの大歓迎を受け、8月に船便で帰国。続いて読売新聞は1936年(昭和11年)正月の誌面でメッサーシュミット最新鋭機の購入と、同年8月の五輪開催地となっているベルリンから東京までを3日間で飛ぶ一大計画を発表した。良太郎と石橋雅雄機関士は行く先々で歓迎を受けながらシベリア鉄道経由で5月31日にベルリンへ到着。7月には機体も完成したが、ソビエト連邦政府が飛行を許可しないという事態に陥る。何度も折衝を重ね、ついには日本政府も乗り出したが合意ならず。急遽インド経由の南ルートも検討されたが、気象条件が悪く中止となった[17]

1936年(昭和11年)9月、逓信省が新設した航空章を受章[19]。1940年(昭和15年)4月には日支合弁会社の中華航空に入社し、青島営業所長を経て翌年9月に北京支所長となる[20]。第二次大戦後の1947年(昭和22年)4月には群馬県議会選挙に吾妻郡から出馬し当選。1955年(昭和30年)まで2期務めた。その後は郷里で養鶏業を営み、1965年(昭和40年)8月8日に神奈川県大和市の自宅で逝去[2]

家族

著書

脚注

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