『先哲叢談』続編第10巻に伝記がある[5]。
上野国(現在の群馬県)の農家に生まれる[6]。江戸に出て、徂徠学派の鵜殿士寧および服部南郭の門下に入る[6]。同門の秋山玉山との縁で、熊本藩に赴き藩校時習館の儒員を6年間務める[6]。江戸に戻った後、同じく徂徠学派の宇佐美灊水の養子となったが、やがて徂徠学に疑問を抱くようになり独立した[6]。
独立後は、漢宋諸家の説を折衷する立場をとり、徂徠学を否定した[1]。晩年は、尾張藩の『群書治要』校刻事業(『群書治要』天明版・尾張本)にも関与した[2]。
墓所が東京都港区の真宗大谷派・明福寺にある[7]。