群書治要
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資料的価値

本書は中国では失われ、日本に伝来して現在まで伝えられた(佚存書)[1]。もともと金沢文庫に鎌倉時代の写本(巻4、13、20を欠く)が伝えられ[1]、元和2年(1616年)に徳川家康の命で銅活字によって刊行された[1]。こののち、天明7年(1787年)に尾張藩が元和版に校訂を加えて刊行した[1]。そして、天明版を寛政三年に補刻したもの(寛政修訂版)が、清に逆輸入されることとなった[1]。これを阮元が入手し、嘉慶帝に進上した[2]。
本書は唐代初期に編纂されたため、唐代以前のさまざまな書籍のテキストの姿が多く保存されており、諸書の輯佚や校訂において重要な役割を果たした[3]。現存しない書籍を多数収録していることを阮元は高く評価し、明らかに唐初の書物であると判断している[4]。
1798年には阮元が『曾子』の校訂のために、1806年には孫星衍が『尸子』の輯佚のために利用した。王念孫・王引之もよく本書を利用する[3]。ただ、清代の学者は天明版を利用しているため、天明版で改められた字に従っている場合がある[3]。