牛島滕六
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1872年(明治5年)、福岡県久留米市に生まれる[2][注 1]。
1891年(明治24年)、屯田兵として東永山兵村へ移住する[2]。
1897年(明治30年)、北海道庁の鉄道敷設事業手として旭川へ赴任する[2]。このころから雪村の雅号で河東碧梧桐選の俳誌『活文壇』に投稿していた[2]。
1900年(明治33年)、札幌の吉見香漣・祝鱸江らとともに俳誌『白雪』を発行するが、8号で廃刊となる[2]。
1902年(明治35年)、俳句結社「若葉吟社」を興し、俳誌『若葉』を4号まで発行する[2]。のちに結社は「北星吟社」へと移り変わった[2]。また、このころ東京の内藤鳴雪を訪ねて師事している[4]。
1907年(明治40年)、留萠鉄道建設準備のため、深川へ転勤する[4]。河東碧梧桐が北海道行脚に来た折は旭川まで出迎え、宮越屋旅館で藤森氷魚らと小句会を開いたのち、深川の自宅に招いて一泊してから、札幌の句会まで行動を共にした[4]。
1911年(明治44年)、鳥取県米子の鉄道出張所へ転勤する[4]。ここで天野宗軒らとの知遇を得た[4]。
それから札幌に転居し、小樽新聞俳壇の選者として5か年にわたり活動する[4]。当時の札幌には、北海タイムス俳壇を担当する青木郭公や、新傾向派の小笠原洋々らがおり、滕六にとってはライバル的存在だった[4]。
1923年(大正12年)2月、『時雨』を創刊する[4]。これは北海道内初の本格的な俳誌として話題になったが、その刊行が順調であったとは言えず、何度か休刊を繰り返した[5]。
1931年(昭和6年)、『時雨』は4年ぶりに復刊を遂げるが、このころになると滕六は『時雨』への情熱を失っていた[6]。1933年(昭和8年)と1936年(昭和11年)の2度にわたり、滕六は息子を頼るかたちで満州へと渡航する[6]。そして3度目となる1937年(昭和12年)、滕六は満州より手紙を通じて『時雨』からの離脱を宣言した[6]。これに応えて、札幌在住編集同人の藤森氷魚・大島扶老竹・長谷部虎杖子・高野草雨が発表した「廃刊の辞」によると、滕六が宗教団体「ひとのみち」に傾倒していったことが、周囲との不和を生む主因であったと思われる[7][注 2]。
1947年(昭和22年)、大陸から引き揚げてきた滕六は、俳誌への復帰を期して札幌の長谷部虎杖子を訪ねた[9]。それから道内各地を行脚したが、返り咲きを果たせぬままに1952年(昭和27年)、帯広の牛島介山宅にて死去した[9]。
脚注
参考文献
- 木村敏男『北海道俳句史』北海道新聞社、1978年5月30日。
- 『永山町史』国書刊行会、1981年12月15日。