牛蔚
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15歳のとき、両経挙に応じた。大和9年(835年)、進士に及第した。三府に辟召されて従事を歴任した。入朝して監察御史となった。大中3年(849年)、右補闕となり、たびたび上章上疏して、時弊を除くよう提言した。宣宗にこれを称賛され、「牛氏の子には父の風がある」と評された。ほどなく司門員外郎に転じ、金州刺史として出向した。入朝して礼部郎中となり、祭祀を礼に準拠させた。吏部郎中となり、権勢をたのんで越権をおこなう者を上奏して匡正させた。当時の権臣に憎まれ、国子監博士・分司東都に左遷された。翌月、権臣が罷免されると、再び吏部郎中として召還され、史館修撰を兼ねた。左諫議大夫に任じられた[1][2]。
咸通年間、給事中となり、詔勅の審査や修正を遠慮せず、懿宗に称賛された。翌年、戸部侍郎に進み、奇章侯の爵位を世襲した。公務上の事件のため免官されたが、その年のうちにもとの官に復職した。工部尚書・礼部尚書・刑部尚書を歴任した。咸通15年(874年)、検校兵部尚書・興元尹・山南西道節度使として出向した。ときに宦官が賄賂を求めてきたが、牛蔚は徐州の反乱対策にかこつけて、軍府の所有していた3万匹の布帛を全て上納して、宦官には渡さなかった。宦官は怒って、神策軍の将の呉行魯と節度使を交代させ、牛蔚を召還した[3][2]。
中和2年(882年)、黄巣の反乱軍が長安を占拠し、僖宗が興元府に避難すると、牛蔚は老齢を理由に引退を願い出て、尚書左僕射として致仕した。のちに死去した。太尉の位を追贈された[4][2]。