牛僧孺

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牛 僧孺(ぎゅう そうじゅ、779年 - 849年)は、唐代官僚政治家李逢吉李宗閔らと結んで李徳裕と争い、牛李の党争を起こしたことで知られる。は思黯[1][2]本貫安定郡鶉觚県

幼くして父を失い、下杜樊郷に田数頃を賜って、書生となった。貞元21年(805年)、進士に及第した。元和3年(808年)、賢良方正科に登第し、伊闕県尉を初任とした。監察御史となり、殿中侍御史礼部員外郎を歴任した。都官員外郎に転じ、知御史台雑事をつとめた。ほどなく考功員外郎となり、集賢院学士をつとめた[1][2]

元和15年(820年)、穆宗が即位すると、僧孺は庫部郎中知制誥となった。11月、御史中丞に転じた。州府の刑事裁判が滞っており、多くの人が冤罪に苦しんでいたが、僧孺が取り調べて相次いで弾劾すると、内外は粛然とした[1][3]

長慶元年(821年)、宿州刺史の李直臣が不正に財産を蓄えて罪に問われ、死刑に相当するところ、宦官に賄賂を贈って寛恕を求めたが、僧孺は死罪を撤回しなかった。長慶2年(822年)1月、戸部侍郎に任じられた。長慶3年(823年)3月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[4][3]

長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、僧孺は中書侍郎・銀青光禄大夫の位を加えられ、其章県子に封じられた。12月、其章県公に進封され、集賢院大学士・監修国史を加えられた[5][3]

宝暦年間、僧孺は四度退任を願い出て、検校礼部尚書・同平章事・鄂州刺史・武昌軍節度・鄂岳蘄安黄観察等使として出向した。荒廃していた江夏城を再建した。また漢陽汊川の2県を鄂州に転属させた。文宗が即位すると、僧孺は検校吏部尚書を加えられ、江夏城におよそ5年駐屯した[5][3]

大和3年(829年)、李宗閔が宰相となると、たびたび僧孺は推薦を受けた。大和4年(830年)1月、長安に召還され、兵部尚書・同中書門下平章事となった[6][3]

大和5年(831年)1月、幽州で兵乱が起こり、盧龍軍節度使の李載義楊志誠により追放された。文宗がこの兵乱の処置をどうすべきか宰相に諮問すると、僧孺は楊志誠の実力を追認するよう勧めた。文宗は宦官の使者を送って、楊志誠をなだめた。ほどなく僧孺は門下侍郎・弘文館大学士を加えられた[6][3]

大和6年(832年)、吐蕃が使者の論董勃義を送って長安に入朝させ、修好を求めた。しかしまもなく剣南西川節度使の李徳裕が吐蕃の維州守将の悉怛謀の帰順を受け入れるよう上奏した。僧孺は維州ひとつで吐蕃との和約を破るべきではないと主張して、これをしりぞけた。これに対して僧孺を非難する議論が起こり、文宗も僧孺を忠直ではないとみなした。12月、僧孺は検校尚書左僕射・同平章事・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知淮南節度事として出された[7][8]

開成2年(837年)5月、僧孺は検校司空を加えられ、判東都尚書省事・東都留守・東都畿汝州都防禦使をつとめた。開成3年(838年)9月、長安に召還されて尚書左僕射に任じられた。開成4年(839年)8月、僧孺は検校司空・同平章事・襄州刺史・山南東道節度使として出された[9][8]

開成5年(840年)、武宗が即位すると、僧孺は検校司徒を加えられた。会昌元年(841年)、漢水で氾濫が起こり、城郭が破壊されたが、僧孺は無為無策であったため、太子少保に降格された。まもなく少師に進んだ。会昌2年(842年)、太子太傅・分司東都をつとめた。会昌3年(843年)、劉稹が反乱を起こすと、僧孺は太子少保・分司東都に降格された。さらに循州長史に左遷された。会昌6年(846年)、宣宗が即位すると、僧孺は衡州長史・汝州長史を歴任した。大中元年(847年)、長安に召還されて太子少師となった。大中2年12月29日[10]849年1月27日)、死去した。享年は69。太子太師の位を追贈された。は文貞といった[11][12][13]

また僧孺は『玄怪録』の撰者とみなされている。

家族

の右光禄大夫の牛弘の末裔にあたる。

  • 曾祖父:牛休充
  • 祖父:牛紹
  • 父:牛幼簡[1]
  • 子:牛蔚[14]
  • 子:牛藂(字は表齢、剣南西川節度使、太常寺卿)[15]

脚注

伝記資料

参考文献

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