牧野忠鎮

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時代 江戸時代後期
別名 新次郎(通称
 
牧野忠鎮
時代 江戸時代後期
生誕 天明8年3月6日1788年4月11日
死没 文化5年7月20日1808年9月10日
別名 新次郎(通称
戒名 謙恭院殿前使君孝誉純徳天真大居士
墓所 東京都港区三田済海寺新潟県長岡市悠久山
官位 河内守
幕府 江戸幕府
越後長岡藩世嗣
氏族 牧野氏
父母 父:牧野忠精、母:青山忠高の娘
兄弟 忠鎮石川総親忠雅康命太田資言正室、錬姫、西尾忠宝正室、紅姫ら
正室:松平定信の娘・婉姫
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牧野 忠鎮(まきの ただつね)は、江戸時代後期の越後国長岡藩の世嗣。官位河内守

第9代藩主・牧野忠精の長男として誕生。

資性謹厳、純幸友愛の人であったが、生来病弱であった。享和2年から3年(1802年 - 1803年)まで麻疹を患う。『御附録』の享和2年11月11日の記事によると、15歳になったので御目見する予定だったが、足痛で取りやめとなり、翌年2月12日から3月10日まで熱海に湯治へ行き、5月18日に「麻疹御湯祝之」とある。

文化2年(1805年)に松平定信の娘の婉姫(寿姫)と婚姻するが、その3年後に死去した。なお、死因についての記録は『御附録』には記載がない。

家督相続以前に父よりも早く死去し、かつ子がないため、代わって同母弟・忠雅が忠精嫡子となり、後に藩主の座を継いだ。また、忠鎮正室は壽姫と改名し、舅の忠精の養女として越後村上藩主・内藤信敦の継室となった[1]

墓所発掘調査

脚注

参考文献

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