狩野岑信
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元禄元年(1698年)、後に6代将軍となる徳川家宣に召し出され、同3年(1700年)15人扶持が与えられる。宝暦元年(1704年)家宣の西の丸入場に従い、宝暦4年(1707年)11月29日松本性を賜って松本友盛と名を改めた。この時、家宣自ら松平姓を与えようとしたが、岑信が憚って辞退したため松本姓を与えたという。更に翌年家宣の将軍宣下に伴い奥医師並、200俵7人扶持に加増、別家を許されて浜町狩野家を興し、更に狩野宗家の中橋狩野家を凌いで狩野総上席を与えられた。なお、御用絵師が奥医師並の職格を与えられたのは、住吉具慶と岑信のみである。しかし、家宣の将軍就任を見ずに宝永5年(1708年)12月3日、父常信に先立って亡くなった。享年47。戒名は覚樹院岑信日量、墓所は池上本門寺。家宣の御用を多く務めたと推測されるが、現在確認されている作品数は20点に満たない。弟子に伊予松山藩御用絵師の豊田随園など。