独孤郁
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幼くして父を失い、伯父の独孤汜に養育された。貞元14年(798年)、進士に及第した。その文才を権徳輿に称賛され、かれの娘を妻に迎えた。貞元18年(802年)、監察御史となった[3][1]。
元和元年(806年)、独孤郁は才識兼茂・明於体用の制挙に応じ、対策は第四等に入選し、左拾遺に任じられた。元和4年(809年)、右補闕に転じ、同僚とともに宦官の吐突承璀を河北道招討使とすることを非難する上書をおこなった[3][1]。
元和5年(810年)、独孤郁は史館修撰を兼ねた。ほどなく翰林学士をつとめ、起居郎に転じた。権徳輿が宰相となると、独孤郁は妻の父が公卿となったことに遠慮して宮中の職を辞した。考功員外郎となり、史館修撰・判史館事をつとめ、『徳宗実録』の編纂に参与した[3][1]。
元和7年(812年)、本官のまま知制誥となった。元和8年(813年)、駕部郎中に転じた。10月、再び翰林学士となった。元和9年(814年)、病のため宮中の職を辞した。11月、秘書少監に転じ、死去した。享年は40。絳州刺史の位を追贈された[3][1]。