玉泉寺 (新潟県刈羽村)
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
1056年(天喜四年)、源頼義が、後冷泉天皇より祈願所として創建され拝領した「大泉坊」に子の厚陽玉和泉和尚を留め置き、真言宗寺院「大泉坊」とした。その後、応永元年(1394年)、第十九代住職の正成坊が、現在の日蓮宗へと改宗し、僧名を改め日玉とし、「南永阿闍梨日玉上人」と僧位を拝受した際に、寺号を改め「南永山玉泉寺」とし開基した。初代住職を日玉上人とし当代は三十一世齊藤浩治上人(累計では六十代)[3]。
平安時代、朝廷に背く、安倍家の安倍頼時を討伐しに向かった陸奥守・藤原登任は苦戦し敗北を喫した。そこで、日本の第七十代天皇、後冷泉院(後冷泉天皇)は源頼義を陸奥守に任じ、同時に鎮守府将軍の最高位を与え、安倍頼時の征討ならびに、速やかに陸奥平定をするよう勅命の御触れを出した。この戦いは後に「前九年・後三年の役」または「奥羽十二年合戦」と呼ばれる大変な戦となった。この困難な戦のため、朝廷は源頼義に奥州(今の東北地方)に向かう途中、祈願所として大泉坊という寺を建立し頼義はこれを拝領した。そして頼義は戦勝祈願のため自身の庶子を出家、得度させ、厚陽玉和泉として当所に留め置いた[4]。朝廷の勝利、源氏の無事を熱心に祈願したこともあり、無事に祈願成就し、頼義は長い戦いを勝利した。以来、源氏の隆盛と共に祈願所として大変に栄えた。その後、十九代の正成坊が寺をおさめていたころ、応永元年(1394年)に日蓮宗に改宗した[4]。正成坊は名を「日玉」と改め寺門興隆に日夜勤め、「南永阿闍梨日玉」と位を授けられた。その際に寺号を「南永山玉泉寺」と改め[5]、日蓮宗は正式に初代住職を日玉上人として中興の祖とし開山したと伝わっている。 鎌倉時代は、源氏の祈願所として栄え、歴代の領主からも、手厚く保護されており、多くの寺領の寄進を受け、領内には大泉坊をはじめ、梅本坊、龍蔵坊、菊台坊、南光坊、宝光坊、月光坊、勧持坊、十如坊、蓮盛坊という十もの下寺をもつ大寺院となった。
長尾家の祈願所の1つであった玉泉寺は寺紋として九曜紋を拝領している、特に上杉謙信(当時は長尾景虎)とは縁が深く、1544年に謙信が14歳で初めて、栃尾城の城主となる頃には、当時の住職(第九世雲哲阿闍梨日従上人)が謙信公に玉泉寺の守護神としていた北辰妙見大菩薩像に戦勝祈願の秘術祈祷を行い、謙信公に持仏として贈った。戦の際に兜の中に納められた菩薩像は勝利の御利益と守護の御加護をもたらし 越後統一に貢献した。天正4年(1576年)能登国の平定に向かう途中に当山へ立ち寄った際に、上杉謙信より恩賞として七堂伽藍の建築の寄進を受けた際、兜守であった北辰妙見菩薩像を導きの本尊として奉納され、以後は玉泉寺の秘宝となった。上杉謙信の兜は日月の前立て、そして中には星の天帝である北辰妙見菩薩像を収め、戦支度を完成されたと伝わっている。その後も上杉家・長尾家との関わりは強く、慶長年間(1600年頃)に上杉家が米沢に国替えされ、天和二年(1682年)の検地が行われた際には 上杉家より寄進されていた刈羽郡の寺領が減ぜられ 十の下寺が荒廃し困難の時期を迎えた。
第二十四世の大悟院日嘉上人は京都六檀林善正講の第四百二十世講主であり、善正寺(京都)の住職も兼任していた事により、豊臣家の菩提寺である門跡寺院、瑞龍寺(近江八幡市)京都の村雲御所(滋賀県近江八幡市にある日蓮宗では唯一の門跡寺院)の歴代門跡である二条家および有栖川家の命により、天明の大火による御所再建に深く寄与した事により、瑞龍寺殿妙慧日秀尼および後陽成天皇の血脈である歴代貫首送迎用の駕籠(緋網代の乗物)が当山に与えられ、この駕籠は十万石の格式があったとされている[5]。そのため、玉泉寺は代々領主や庄屋を営み、脈々と法灯を受け継いできた。自坊も同時期、天明(1788年頃)に山火事で、本堂・庫裡をはじめ諸堂が全て燃え、下寺もすべて灰燼に帰した[4]。その後安政4年(1857年)に本堂を現在の地に移し再興した[4][5]。玉泉寺が所持していた数々の宝物や書籍類は大火で焼失してしまったが、北辰妙見大菩薩像や緋網代の駕籠や数点の仏像や書類は難を逃れ現存している[4]。これは当時の玉泉寺に多くの弟子の僧侶や修行者が在住しており、命に代えても護ったものだと伝えられており、一部には焼けた痕跡も見られる[6]。