玉縄陣屋
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(神奈川県) | |
|---|---|
| 別名 | 相模陣 |
| 城郭構造 | 陣屋 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 松平正綱 |
| 築城年 | 1619年(元和5年)以降[1] |
| 主な城主 | 松平正綱・松平正信・松平正久 |
| 廃城年 | 1703年(元禄16年) |
| 遺構 | 道路・井戸・苑池 |
| 指定文化財 | 未指定 |
| 埋蔵文化財 包蔵地番号 | 鎌倉市No.63(玉縄城と同じ)[2][3] |
| 位置 |
北緯35度21分03.5秒 東経139度30分52.4秒 / 北緯35.350972度 東経139.514556度座標: 北緯35度21分03.5秒 東経139度30分52.4秒 / 北緯35.350972度 東経139.514556度 座標は鎌倉市植木の陣屋坂付近 |
| 地図 | |
玉縄陣屋(たまなわじんや)は、神奈川県鎌倉市植木字相模陣(旧相模国鎌倉郡植木村)にあった陣屋。江戸時代前半期に当地に存在した玉縄藩の藩庁で、玉縄城(山城)の南山麓にあったと推定されている。
鎌倉市植木・城廻・関谷・玉縄にかけての丘陵地帯に所在する玉縄城は、1512年(永正9年)の伊勢盛時(北条早雲)による築城以来、後北条氏と上杉氏や武田氏・里見氏との幾度もの抗争の場となり、後北条の中核家臣団(玉縄衆)の東相模最大の拠点となってきたが[4][1]、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で徳川家康の軍に包囲され、山中城防衛に失敗して自決覚悟で玉縄城に籠った城主・北条氏勝が、大応寺(現・龍寶寺)住職らの説得を受けて無血開城し、後北条氏の城郭としての役割を終えた[4]。その後、家康は本多正信・水野忠守に玉縄城を預けたが、1615年(慶長20年)の一国一城令を受けて1619年(元和5年)に廃城となった[1]。
その後、長沢松平家の松平正綱が22000石を受けて玉縄に入封されて玉縄藩を立藩し[4]、正綱は玉縄城山麓に玉縄陣屋を建てた。しかし3代藩主松平正久が1703年(元禄16年)に上総の大多喜藩へ移封となったため、廃藩となった。なお1792年(寛政4年)に松平定信が海岸防備のために玉縄城の再興を計画したが、実現しなかった[1]。
