王仁裕

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王 仁裕(おう じんゆう、880年 - 956年)は、五代十国時代文人官僚は徳輦。本貫秦州天水県[1][2]

若くして父を失い[1]、書を知らず、犬馬弾射を楽しみとした。25歳になって学問に志し、文辞によって知られるようになった。雄武軍節度判官となった。前蜀に入って中書舎人・翰林学士に任じられた[2]

後唐同光3年(925年)、荘宗が前蜀を滅ぼすと、仁裕は再び雄武軍節度判官となった。王思同興元尹・山南西道節度使となると、仁裕は山南西道節度従事として召し出された。王思同が京兆尹・西都留守となると、仁裕は判官をつとめた。応順元年(934年)、潞王李従珂鳳翔府で起兵し、王思同が敗れて仁裕は捕らえられた。清泰元年(同年)、仁裕は末帝(李従珂)のために詔書や告命の文章を書いた[2]。司封員外郎・翰林学士・知制誥となった[3]

後晋天福2年(937年)、仁裕は都官郎中となった[3]。のちに左司郎中に転じた。天福8年(943年)、左諫議大夫に任じられた[4]開運元年(944年)、給事中となった[5]。開運2年(945年)、左散騎常侍に転じた[6]

後漢の天福12年(947年)、仁裕は戸部侍郎・翰林学士承旨に任じられた[7]乾祐元年(948年)、戸部尚書に進んだ[8]。知礼部貢挙をつとめ、進士33人を及第させ、王溥范質らは宰相となった[2]。乾祐3年(950年)、兵部尚書となった[9]

後周広順元年(951年)、仁裕は太子少保に転じた[10]顕徳3年(956年)7月19日、死去した[11]。享年は77。太子少師の位を追贈された[2]。著書に『西江集』100巻[12]・『入洛記』1巻[13]・『玉堂閑話』3巻[14]があった。

脚注

伝記資料

参考文献

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