王令温
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徳州刺史の王迪の子として生まれた。若くして武勇で知られた。はじめ後唐の荘宗の麾下に属し、庁直軍校に累進した。李嗣源が節度使となり、契丹と上谷で戦ったことがあったが、戦いの最中に馬を失くしてしまった。敵に肉迫されたため、令温は乗馬を李嗣源に与えて、自らは奮戦し、矢を連発して、敵兵を撃退した。明宗(李嗣源)が即位すると、令温は彰聖軍都校に任じられた[1]。
後晋のはじめ、淄州刺史から洺州団練使に転じた。天福6年(941年)、安重栄が鎮州で反乱を起こすと、令温は高祖石敬瑭の命を受けて行営馬軍都指揮使となり、杜重威とともに宗城県で反乱軍を撃破した。功により亳州防禦使に転じた[1]。天福7年(942年)、永清軍節度使に任じられた[3]。天福8年(943年)、契丹が侵入してきたとき、令温は少帝石重貴の命を受けて入朝しており、契丹軍が貝州を陥落させて、かれの家族を連れ去ってしまった。開運元年(944年)、少帝にこれを憐れまれて、令温は威勝軍節度使となった[1][2]。ほどなく延州節度使に転じた[4][1]。開運2年(945年)、朔方節度使に任じられた[5]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、令温は再び永清軍節度使となった[1]。乾祐3年(950年)、安遠軍節度使に転じた[6]。後周のはじめ、検校太尉・同平章事を加えられた。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、令温は陳州節度使に任じられた。顕徳3年(956年)夏、病没した。享年は62。侍中の位を追贈された[1]。