王傅拯

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王 傅拯(おう ふじょう、生没年不詳)は、五代十国時代軍人本貫蘇州呉江県[1]

の百勝軍節度使の王綰の子として生まれた。はじめ呉の楊溥に仕え、黒雲都右廂都指揮使となり、本軍を率いて海州に駐屯した。長興元年(930年)、傅拯は海州刺史の陳宣を殺し、州城を焼いて、部下の兵5000人を率いて後唐に帰順した。明宗に喜んで迎えられ、金紫光禄大夫・検校司徒曹州刺史に任じられた。ほどなく濮州刺史に転じた。清泰2年(935年)、貝州防禦使となった[1]

後晋天福2年(937年)、任期を満了して交代することとなったが、范延光の反乱が起こったため、傅拯は兵を率いて興唐府に入り、疑われて任用されなかった。范延光が降伏すると、傅拯は高祖石敬瑭により諸衛将軍に任じられ、寧州刺史として出向した。寧州に着任すると、以前からの政治の弊害数十件を除去して、民衆に喜ばれた。数カ月もせず、虢州刺史に転じた。寧州から離任するにあたって、役所に数千人が集まって、道をふさいで留任させようとした。傅拯は虢州に着任すると、安定した統治をおこなって、やはり民衆に愛された。開運2年(945年)、武州刺史に任じられた。交代を受けて洛陽に帰り、病没した[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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