王小亭
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上海南駅の赤ん坊
北京生まれ[2]。米国の大学卒業直後から英米ニュース短編映画会社の撮影技師を担当する。その後、1925年-1937年の間、「万国ニュース通信社」の撮影技師、上海申報新聞および米国ハースト新聞社でカメラマンを務めた。董顕光によれば、国際宣伝処が中央通信社内に設置し、対米写真宣伝工作における「撮影工作」の基点となった撮影部の開始時のただ一人の人員であった[3][注釈 1]。
日中戦争開始直後の1937年8月28日、米国ハースト新聞社のジャーナリストとして、米軍の委託を受け、第二次上海事変における張華濱港戦闘後の撮影をおこなった。その際に日本軍により空爆[注釈 2]された上海南駅で、「上海南駅の赤ん坊」(中国では「中國娃娃」)と呼ばれる後に最も有名になるニュース写真を撮影した。この写真は戦争の悲惨さを強く印象づけたものとして、新聞王ハーストの手により、2週間後には米国のLIFE誌、およびその他複数の雑誌に掲載され、世界に向けて配信された。この爆撃で破壊された廃墟の中で泣き叫ぶ幼児の画像は米国のマスコミや民衆を驚かせるだけではなく、全世界で広く伝えられ、さらに多くの人々の話題になった。この写真は米国の民衆の間で日本の中国進出に反対する世論を盛り上げるために大きな効果をもたらした。
1938年、王は蘇州戦線や広東爆撃等を撮影した[7]。 撮影した「上海南駅の赤ん坊」の写真のために日本の右翼らによる暗殺の脅迫に晒され、イギリス当局の庇護を受け、まもなく家族とともに香港に避難した[8][9]。蔣介石夫人の宋美齢とは1928年の済南事件以来の知合いで、その後、中国各地で撮影活動を続け、シェン・ノートンの取材などでも知られる[1]。1943年、アメリカに帰国。1945年7月、米爆撃機B29のエンパイアステートビルへの衝突事故を偶然撮影する[1]。
戦後
戦後、米国から台湾に移り、記録映画関連の映画と写真の撮影に従事した。1950年-1960年代、王小亭は米高梅公司の記録映画の撮影に転職し、『章嘉活佛火化(章嘉活の火葬)』、『台灣櫻花盛開(台湾の桜が満開)』などの短編映画を残した。