王敏 (五代)
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純粋実直な性格で、若くして学問に奮励して文章を修め、進士に及第した。後晋の成徳軍節度使の杜重威を頼り、成徳軍節度従事となった。後漢の天福12年(947年)、杜重威が広晋府で叛くと、ときに王敏は留守判官をつとめていたが、泣いて杜重威を諫め、帰順するよう求めた。杜重威ははじめ聞き入れなかったが、窮迫すると王敏の言を容れて、城ごと降伏した。ときに広晋府の飢民はほぼ半数に及んだが、みな生き残れたのは、王敏の尽力によるものであった。入朝して、侍御史に任じられた[2]。
後周の広順元年(951年)、柴栄が澶州節度使となると、王敏は太祖郭威の命により澶州節度判官となった。柴栄が開封尹となると、王敏は開封少尹に転じた。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、王敏は知開封府軍府事をつとめた。まもなく左諫議大夫・給事中に任じられた[3]。顕徳2年(955年)、工部侍郎に転じた[4]。王敏はかつて娘婿の陳南金を彰信軍節度使の李継勲に推薦してその記室としていたことがあった。顕徳3年(956年)、李継勲が寿州で敗北し、宮殿に出頭して処罰を待ったが、世宗は李継勲を処罰せず、陳南金を左遷した。王敏はこれに連座して、免官された[5][3]。顕徳4年(957年)2月、司農寺卿として復帰した[6]。7月、病没した[7][3]。