王璠

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王 璠(おう はん、生年不詳 - 835年)は、唐代官僚は魯玉[1][2]本貫太原府祁県

経歴

元和5年(810年)、進士に及第し、博学宏辞科に登第した。節度使の補佐役を歴任した。元和年間、入朝して監察御史となった。起居舎人に転じ、鄭覃を補佐して鎮州で宣撫した。長慶元年(821年)、員外郎を歴任した。長慶4年(824年)、職方郎中知制誥となった。宝暦元年(825年)2月、御史中丞に転じた[1][3]

王璠は宰相の李逢吉と親しく、李逢吉の権勢をたのんで、幅を利かせた。尚書左僕射の李絳と街で遭遇して、その車を避けなかったことがあった。そのことを非難されたが、処分を受けることなく、工部侍郎となった[4][5]

宝暦2年(826年)7月、河南尹として出向した。大和2年(828年)、本官のまま知東都選補をつとめた。10月、尚書右丞に転じた。大和3年(829年)、吏部侍郎となった。大和4年(830年)7月、京兆尹に任じられ、御史大夫を兼ねた。12月、尚書左丞に転じ、判太常寺卿事をつとめた。大和6年(832年)8月、検校礼部尚書潤州刺史・浙江西道観察使として出向した[4][5]

大和8年(834年)、李訓文宗に信任されると、王璠はたびたび李訓に推薦を受けた。長安に召還されて、再び尚書右丞に任じられた。大和9年(835年)5月、戸部尚書・判度支に転じ、祁県男に封じられた。11月、李訓が宦官粛清を図ると、王璠は李訓の命を受けて豪俠を召募し、河東節度使に任じられた。甘露の変が起こって、李訓が敗北すると、王璠は長興里の邸に帰った。この夜、禁軍に捕らえられて、一家ごと獄に下された。王璠は長安子城の西南隅の独柳樹の下で腰斬された。王璠の家族は長幼の別なく、みな殺害された[6][5]

家族

  • 祖父:王崟
  • 父:王礎(黔州観察使)[1][7]
  • 子:王遐休[8][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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