王環
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後唐の同光3年(925年)、孟知祥が剣南西川節度使となると、王環は成都府に赴いて孟知祥に仕えた。明徳元年(934年)、孟知祥が後蜀を建てると、王環は軍衛をつかさどった。後主孟昶が即位すると、王環は左衛・右衛を兼領した[1][2]。
顕徳2年(955年)秋、後周の王景や向訓らの軍が西征すると、ときに王環は後蜀の鳳州節度使をつとめていたが、後周の一部の軍勢が鳳州の城下を通過しようとすると、王環はこれを撃破して、裨将の胡立を捕らえた。この年の冬、後周の大軍が集結し、鳳州の城を攻め立てた。後蜀の後主が派遣した秦州節度使の高彦儔の援軍は敗走した。成州・階州が後周に降り、王環は孤立したが、いよいよ堅く鳳州を守備した。周軍は数カ月攻撃して鳳州を攻め落とし、王環は捕らえられた。開封府に連行されて、世宗柴栄に面会すると、その忠義を嘉されて罪を赦され、右驍衛大将軍に任じられた。顕徳4年(957年)冬、世宗が南征すると、王環は従軍して泗州までいたり、病没した[1][3]。