王継弘

From Wikipedia, the free encyclopedia

王 継弘(おう けいこう、生年不詳 - 953年)は、五代十国時代軍人本貫冀州南宮県[1]

北宋太祖の父の趙弘殷の諱を避けるために、「弘」の字が「宏」と改めている文献もある。

若くして反乱者となり、村落を襲撃略奪して、官吏に捕らえられた。鎮州の獄に繋がれたが、赦令に遭って一死を免じられた。鎮州に配属され、李嗣源が成徳軍節度使となると、その麾下に入った。石敬瑭が明宗(李嗣源)の将となると、継弘はその下で帳中小校となった[1]

後晋天福年間、継弘は六宅副使となった。自負が強く不遜な性格で、禁中の同僚と争い、義州に出された。一カ年あまりして、奉国軍指揮使となった。開運3年(946年)、契丹太宗に従って相州にいたり、奉国軍を率いて相州を守った。契丹の太宗が高唐英を彰徳軍節度使に任じると、継弘は高唐英に厚遇された。高唐英は継弘の邸を訪れるたび、継弘の母に拝礼して、手厚く贈り物をおくった[1]

天福12年(947年)、契丹の太宗が死去し、後漢の高祖劉知遠洛陽に入ると、高唐英は劉知遠のもとに使者を送って帰順を約束した。劉知遠は喜んで、高唐英を厚遇しようとした。使者が帰らないうちに、継弘は指揮使の樊暉らとともに高唐英を殺害し、彰徳軍節度留後を自称した。継弘は彰徳軍節度判官の張易を送って劉知遠に上表した。ある人が継弘の忘恩を非難したが、継弘は「我々は小人である。富貴を求めて、終生志を忘れることはできない」と答えた。継弘は入朝して、正式に彰徳軍節度使となった。この年、検校太傅を加えられた。彰徳軍節度判官の張易は継弘の不法行為を見るたびに必ずこれを諫めた[1]乾祐元年(948年)、永清軍節度使に転じた[2]。継弘は張易を誣告して殺させた[3]。ほどなくさらに貝博等州観察推官の張制を殺害した[1]。乾祐2年(949年)、検校太尉を加えられた[4]

後周広順元年(951年)1月、継弘は同平章事を加えられた[5]。8月、河陽節度使に任じられた[6]。広順3年(953年)6月15日、開封府で病没した[7]侍中の位を追贈された[1]

子の王永昌は、北宋に仕えて、内諸司使を歴任した[8]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI