王進 (五代)
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若くして落ちぶれて、生業を営まなかった。勇猛果敢な性格で、走れば馬に追いつき、仲間を集めて盗賊となったため、国境地帯はかれに苦しめられた。後唐の天成2年(927年)、符彦超が昭義軍節度使となると、王進は金品を贈られて誘われ、側近に置かれた。長興4年(933年)、符彦超が安遠軍節度使となると、王進はこれに従った。部下の王希全が安州の軍を率いて反乱を起こすと、王進は符彦超の命を受けて軍乱のようすを朝廷に奏聞した。明宗は王進の足の速さを賞賛し、軍中に属させた。契丹の侵入があり、膠口で戦うと、王進はひとり追撃して67人を捕らえた[1][2]。
後晋の天福2年(937年)、劉知遠が侍衛親軍を総べると、王進の勇猛果断ぶりを知って、馬前親校に抜擢した。天福6年(941年)、劉知遠が太原府に駐屯すると、あるとき北辺で危急のことがあって、王進は機密の上奏文を太原府から開封府まで届けて数日で戻ってきた。軍職を歴任し、奉国軍都指揮使に累進した。広順元年(951年)、後周の太祖郭威に従って開封府を平定し、功により虎捷軍右廂都指揮使に転じた。汝州防禦使・鄭州防禦使を歴任し、善政の声誉があった[1][2]。広順3年(953年)、相州節度使に任じられた[3]。統治の手法が以前より衰えていたので、当時の識者に惜しまれた[1]。顕徳元年(954年)1月、検校太傅を加えられた[4]。この年の秋、在任中に病没した。太師の位を追贈された[1][2]。