珍山波動
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経緯
第一次珍山波動は、1964年8月23日、与党である民主共和党(以下、共和党)が7月に強行採決した言論倫理委員会法を巡り、当時、民政党の党務委員であった柳珍山が党を除名された事件である。
1964年6月3日、日韓国交正常化交渉に反対する学生デモの高まりを受け、政府はソウル市一円に非常戒厳令を布告した(6・3事態)。戒厳令布告後、共和党と野党(民政党・民主党)は「時局収拾協議会」(以下、協議会)を組織して戒厳令解除に向けた協議を行い7月28日に与野党共同の声明を発表、同日行われた国会において与野党共同提案による非常戒厳令解除要求決議が可決された事により、翌29日、戒厳令は正式に解除された。しかし、協議会では学生による街頭行動を制限するための措置として与党側が求めていた「言論自立規制強化対策」について明文での合意がされていなかった。
戒厳令解除の翌30日、共和党は言論倫理委員会法案と学園保護法案を国会に単独提案した。これに対し野党は、尹潽善率いる民政党は徹底抗戦の姿勢を採ったが、もう一つの野党である三民会(民主党・自由民主党・「国民の党」による共同院内交渉団体)は修正案を提出した事で、分裂状態となった。また協議会に参加していた野党議員は、戒厳令解除後における共和党の行動を予め知った上で黙認していたのではないか、という疑惑を向けられ窮地に陥ることになった。強硬派は言論倫理委員会法の標的となった新聞各紙による疑惑報道に力を得て党内穏健派への攻勢を強める事になった。最大野党である民政党内における強硬派の批判は尹潽善と対立関係にあった柳珍山に向けられた。
言論倫理委員会法を巡り、壇上占拠など徹底抗戦を主張する尹潽善に対し、柳珍山はもう一つの野党である三民会を与党側に追いやるとして反対し、激しく対立した。そして、三民会が提出した言論倫理委員会法修正案が可決された際、民政党は壇上占拠ではなく議場からの退場を選択した事で尹潽善と柳珍山の政治的対立は決定的となり、8月3日に開催された議員総会は紛糾し、尹潽善らは柳珍山が与党の強行採決を黙認したとして公式に糾弾した。二日後に行われた中央常務委員会では「黙約真相調査委員団」が設置され、民政党が結果的に言論倫理委員会法の成立を許してしまった背景に柳珍山の暗躍があったとした。
8月23日、民政党監察委員会は書面決議にて柳珍山を除名する決定を行った。後に「第一次珍山波動」と呼ばれるこの事件に対し柳珍山は、法廷闘争で対抗、11月26日に裁判所にて自らの復党を勝ち取る事ができた。一方、尹潽善は群小政党である自由民主党との統合を推進、柳珍山が復党を勝ち取ったのと同じ日の11月25日に統合を宣言した。そして12月16日、柳珍山寄りの幹部13名を除名、7名を2年間の停権処分とした。しかし、野党統合を望む世論に推される形で、柳珍山系幹部に対する処分は同月31日に取り消された。