1913年(大正2年)12月5日、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2女子として誕生[1]。御七夜の12月11日に「珖子」と命名された[2][注釈 1]。
1918年(大正7年)6月17日の夕食後に嘔吐し、当初は胃腸炎と診断され一時は快方しつつあったが、24日の嘔吐と浮腫によって腎臓炎の併発が判明した[3]。その後も、容体は回復せず、尿毒症が顕著となって同月27日午後1時45分に危篤に至り[3]、午後3時40分に薨去した[4]。
満4歳、数え年6歳の短い生涯であり、また兄宮の賀彦王の薨去から、わずか9日しか経っていなかった。
同年7月3日、京都市下京区今熊野町(当時、現:京都市東山区)の墓地(元法安寺跡)において葬儀が執り行われた[5]。