1951年(昭和26年)11月19日、アメリカ統治下の沖縄県石垣市の石垣島川平湾で、球陽真珠海綿養殖株式会社(球陽真珠)として創業。米国民政府が外資(日本本土の資本)導入を許可した第1号で、大阪の宝石商が40%を出資し、沖縄からは稲嶺一郎らが60%を出資した。初代社長には、初代八重山支庁長を務めた宮良長詳が就任した[3]。
1952年(昭和27年)4月に三重県から技術者を招いて操業を開始。しかし、黒真珠の養殖事業は難航し、1954年(昭和29年)に行われた初の収穫(浜揚げ)では、クロチョウガイから112個の真珠を収穫したもののその色や形は質の悪いものばかりで、以降も良質の真珠がごくわずかしか収穫できない年が続いた。1958年(昭和33年)には、黒蝶真珠の養殖は不可能との結論に達した本土側の技術者及び役員全員が引き揚げ、養殖場に残ったのは3人だけになった。戦後の沖縄では、川平湾の球陽真珠を含め9ヶ所で真珠養殖場が事業化されたが、1963年(昭和38年)までに球陽真珠をのぞきすべてが事業から撤退した。また、奄美、鹿児島、高知でもクロチョウガイの養殖が試みられたが、これらも失敗に終わった[3]。
1962年(昭和37年)4月12日、稲嶺一郎が設立した琉球石油の全面支援を受け、社名を琉球真珠株式会社に改称するとともに、再発足[4]。稲嶺は取締役会長に就任した。1964年(昭和39年)から1966年(昭和41年)にかけて御木本真珠と共同研究を行うも、はかばかしい成果は得られなかった[5]。
そのような中、1968年(昭和43年)、体液が多いクロチョウガイへの挿核手術において、体液を減少させることにより、手術を容易にするとともに、挿核不良や脱核を防止する技術を開発。この方法により挿核された貝が浜揚げされた1970年(昭和45年)5月には、黒蝶真珠の産出個数及びサイズが飛躍的に向上。量産に成功した。当時、産出した黒蝶真珠はミキモトを通じて世界各地に販売されており、1975年(昭和50年)5月にエリザベス2世が訪日しミキモト真珠島を訪れた際には、ミキモトから川平湾産の黒蝶真珠が贈呈された[5]。