瑛想院
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文芸
元修南院僧都である町資補(権大納言烏丸光胤の三男)の娘として京に生まれ、叔父である権大納言外山光実の養女となる[1]。
寛政7年(1795年)、数え年14歳で徳川治紀(後に水戸藩主、この時は嗣子)の側室となる[1]。治紀はこの前年に正室方姫と2人の娘を相次いで亡くしており、以後正室を持たなかったため、選ばれた側室の一人だったと考えられる[2]。寛政8年(1796年)鄰姫(清子)、寛政9年(1797年)苞姫、寛政12年(1800年)敬三郎(斉昭)の一男二女を産んだ。文化13年(1816年)、治紀の死去により落飾、瑛想院と称した。
8代藩主は治紀の長男・斉脩が継いだが、斉脩には子がなく、継嗣問題の末に斉昭がその養子として9代藩主となった。藩主斉昭の嫡母は斉脩の正室・峯寿院であり、将軍家斉の娘でもある彼女は、斉昭にとって頭が上がらない相手であった。こうした中、天保4年(1833年)2月、瑛想院は領国水戸に下った[3]。斉昭の教育方針で、嫡子・慶篤を除く斉昭の子女達は江戸から水戸に送られ、水戸城に暮らして教育を受けた。斉昭の子女を描いた「義公烈公諸公子肖像画帖」[4]には、黒紋付を着た剃髪姿の老女が描かれており、これは瑛想院と考えられている[5]。『昔夢会筆記』には、水戸で教育を受けていた頃の徳川慶喜との話が載っている。瑛想院は当時水戸城中の翠の間という所に住み、斉昭の子達には実の祖母に当たるため、毎月1日・15日・28日の3日、水戸城で暮らす諸公子は揃って翠の間に集まり挨拶するのが慣わしだった。瑛想院は慶喜の日頃の悪戯の数々の知らせを逐一受けていたので、ある日、面と向かって厳しく叱った。だが、慶喜は謝るどころか、すっと立ち上がって「この坊主め」と罵りつつ、瑛想院の頭をしたたかに打ち叩いた。とんでもない無礼として慶喜はさらに厳しく叱られて罰を受け、この話を聞いた斉昭も慶喜を一室に閉じとめて謹慎させるよう命じた。しかし「尼君は人となり殊の外雄々しくましましければ」、つまり瑛想院が非常に勇ましい性格だったため、一層慶喜の快活な性質を気に入り、その後も何かあるたびに親しく教え諭したという[6]。
明治となり、廃藩置県からに2年後の明治6年(1873年)、水戸より東京に出て、北二葉町別邸(現在の墨田区石原)に移り住んだ[1]。明治8年(1875年)4月4日、明治天皇が初めて水戸徳川家の本邸小梅邸に行幸した。このとき当主昭武の一門縁戚15人天皇に謁し、この中に瑛想院もいた。『明治天皇紀』に「特に斉昭の生母を慰諭したまひ」とある[7]。間もなく体調を崩し、26日、満93歳で死去した[1]。
著に「補子詠草」がある(長沢美津編『女人和歌大系』第三巻に所収)。序文万里小路睦子。和歌426首を収める[8]。
春浅み雪間を分けて下萌えの 若菜摘む手も寒き朝風
若菜の青み渡れる春の野に 駒も勇みて遊ぶ声々
七十の今年よりまた嶺高き 齢を契る山は動かじ
子女
脚注
- 1 2 3 4 5 6 『プリンセス・トクガワー近代徳川家の女性たち 解説シート』(松戸市戸定歴史館、2020年)p.2、「外山補子墓誌」同p5
- ↑ 治紀と側室達との子女の誕生は寛政8年(1796年)からの6年間に集中しており、ほか3人の側室もほぼ同時期に選ばれたと思われる。
- ↑ 『水戸下市御用留 六』(茨城大学附属図書館、1997年)p.134
- ↑ 茨城県立図書館蔵(デジタルライブラリー)。
- ↑ 『幕末日本と徳川斉昭』(2008年、茨城県立歴史館)p87
- ↑ 渋沢栄一 編「御幼時の課業と御気質との事」『昔夢会筆記』平凡社、1966年、320頁。
- ↑ 『徳川昭武―万博殿様一代記』(中央公論社、1984年)p183、『明治天皇紀』第3巻
- ↑ 秋山高志『水戸の文英』那珂書房、2014年、192頁。