瑠璃坏
正倉院宝物
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形態
正倉院には数万個におよぶガラスが保管されているが、その器物として完成しているのはわずか六点である[7]。それが、白瑠璃碗、白瑠璃瓶(はくるりのへい)、瑠璃坏、紺瑠璃壺、緑瑠璃十二曲長坏、白瑠璃高坏である[7]。
瑠璃坏は材質調査によってアルカリ石灰ガラス(ソーダガラス)製と判明している[8][9]。そのガラス部分に加えて、銀製鍍金(金メッキ)の台脚が付属している[9]。ただし、現在の瑠璃坏につけられている台脚は、明治時代に行われた補修の際に新しく作られたものである[10]。本来の台脚については、その一部である忍冬唐草文様をあしらった受座が明治38年5月(1905年)に発見されている[8][11]。古裂を納めた唐櫃の中に納められていたという[12]。
その色は、コバルトブルー[9]や濃紺[13]などと形容されている。マンセル記号で表記すると、5PB3/6らしい[8][2]。この色は、ガラスに含まれるコバルトによるものである[14]。ただし、特に正倉院宝物の一つ紺瑠璃壺と比べて、色は暗めで、コバルトが不純で鉄やマンガンを含んでいるためと推定されている[14][15]。
坏の外側には、いくつかのガラスの環が取り付けられている。坏のガラスと同質で、その太さは約3.5ミリメートル、環は短径1.7センチメートル、長径1.8センチメートルの楕円型である[10][3]。その数は、上段と中段に8個、下段に6個である[9][10]。環のつなぎ目はすべて下にあるが、上段の環のみ横に長い楕円で、中段は真円、下段の環は縦に長い楕円形となっている[3][16]。
来歴
制作
瑠璃坏はガラス製の器部分と金属製の台脚部分が別々に作られ、一つになったと推定されている[17]。当初使われていた座金(明治38年に見つかったもの)に紫外線を当てて調査したところ、当時日本や中国で盛んに用いられた漆を使ってガラス部分と接合していることがわかっており、接合は西アジアではなく東アジアで行われたと考えられている[18]。後述する韓国松林寺遺跡で出土した瑠璃坏や壁画に描かれている瑠璃坏に類似したものは、台座が存在していないことからも、台座部分がついていない状況で東伝した可能性を示唆している[19]。
奈良時代の日本では、ガラス製作は行われていたものの、鉛ガラスが主流で、制作されるものもガラス玉であったことから、輸入品であることがわかる[20]。ガラス部分はアルカリ石灰ガラスであることから、西アジアで制作されたという説が支持を得ている[12][21]。また、6世紀に繁栄したサーサーン朝のガラス製品(ササンガラス)や、4 - 6世紀頃のものとみられる薄手でガラス環が張り付けられた吹きガラスに影響を受けて、7世紀頃に作られたという見方もある[12]。由水常雄は、瑠璃坏の類似品などは特にサーサーン朝の末期に作られていたようであるため[注釈 3][22]、(ホスロー2世の治世か)7世紀前半に、民間の工房で作られたものという推定を行っている[23]。谷一尚は、瑠璃坏と似た形状のガラス容器が7世紀後半から8世紀ごろの初期イスラム時代の地層から発見されていることから、西方で作られたものであると曖昧に言っている[21]。
その制作方法は、ガラスを宙吹きで膨らまして、ガラス棒を熱して環の形にして癒着させたのちに、口縁部分を切りそろえて、再び過熱することで口縁部分にそりを加えたと想定されている[12]。ガラス部分の表面には、小さい凹凸が存在しているが、これも鋳型を用いずに吹いて制作されたことを指し示すものである[3]。
台脚の制作場所・時期は諸説あるが、中国とする説が主流である[21]。台脚に見られる文様は、中国の漢から南北朝時代にかけてよく見られるものである[18][24]。昭和23年(1948年)の原田淑人の著作では、この文様を「すこぶる中国的だ」と評している[21]。模様同士の隙間に施されている魚子については、イランから出土するものよりもまばらに打たれていることを根拠に、中国や朝鮮で施されたものとする説もある[18]。一方で、内藤栄は同様の理由から、中国製ではなく統一新羅や百済などの朝鮮半島もしくは日本で作られた可能性を[25]、さらに文様についても分析して百済製である可能性が高いことを指摘している[26]。さらに、台脚に用いられている技術より、米田雄介はその制作時期を唐代とする説を提唱している[9][21]。
またこの忍冬唐草文様は、天平年代のものより飛鳥時代のものに似ているため、飛鳥時代に作られたという可能性も指摘されている[27]。まとめると、台脚が作られた時期・場所として可能性があるのは、飛鳥時代の日本や隋唐時代の中国、新羅や百済などの朝鮮半島が挙げられている[28]。
正倉院宝物として
「正倉院のガラス」によれば、瑠璃坏は大仏開眼供養会が行われた天平勝宝4年(752年)に奉献されたものとみて差支えがないという見解が示されている[29]。しかし、光明皇后による5度の奉献の目録である「東大寺献物帳」をはじめ、奈良時代・平安時代の目録にはガラス製品が一つも含まれていないことが、由水常雄によって指摘されている[30]。どちらにしても、瑠璃坏が日本に伝来した時期やルート、日本に伝来してから正倉院に納められるまでの来歴は不明である[31]。後述する韓国で発見された類似品の存在より、朝鮮半島を経由して日本へ由来した可能性は指摘されている[24]。
瑠璃坏は現在、正倉院中倉に納められている。中倉は、造東大寺司もしくは東大寺が保存管理していた宝物を収蔵しているため、北倉の宝物に比べてその収蔵の経緯は明らかでないことが多い[7]。さらに、中倉や南倉は平安時代の末まで点検の記録が残っておらず、奈良時代・平安時代のある時点で収蔵されていたかを特定することですら難しい[7]。
瑠璃坏が最初に目録に登場するのは、建久4年(1193年)の目録である[32]。その目録の中では、24個のガラス器の名が記されており、北蔵(倉)所蔵品として「青玉杯」の名で瑠璃坏が記載されている[32]。現存する6つのガラス器のうち、紺瑠璃壺と白瑠璃瓶もこの時の記録に残っている[32]。由水常雄は、突然のガラス器の登場について、平重衡による東大寺焼き討ちからの復興を果たして、文治元年(1185年)に行われた大仏開眼会と関連している可能性があると指摘している[33]。
徳川秀忠による慶長17年(1612年)の正倉院開封や、寛文6年(1666年)などのものには、瑠璃坏と思わしき記録が残っていない[34]。その後の、徳川綱吉による元禄6年(1693年)の記録とそれ以降の記録には、瑠璃坏と推定されるものが記されている。
由水常雄によると、1979年に当時の総理大臣であった大平正芳が、第5回先進国首脳会議(東京サミット)に出席したアメリカ大統領ジミー・カーターへ、古代日本の文化交流の象徴として自身が復元した瑠璃坏を贈ったという[35]。
奈良国立博物館で開催される「正倉院展」では、第13回(昭和35年)[36]、第19回(昭和41年)[37]、第35回(昭和58年)[38]、第46回(平成6年)[5]、第64回(平成24年)[39]、第77回(令和7年)[40]の6回出品されている。
類似品の存在

瑠璃坏には、いくつかの類似品が東アジアにも存在している。当時の東アジアに、このようなガラス製品を作り上げる技術はなく、西方のガラス製品が珍重されていたことがうかがえる[41]。
特に類似したものとして[42]、統一新羅時代の遺跡である松林寺跡(現在の韓国慶尚北道)の五重塔からは、1959年に黄緑色の瑠璃坏が舎利の容器として発見されている[9][13][43]。この作品は、外側についているガラス環が三段それぞれに4個ずつある[44]。さらに、発見当初はガラス環にガラス玉と真珠が埋め込まれていたとも言われている[45]。
現在の中国西安郊外何家村の穴倉の遺跡からも淡黄色の瑠璃坏が出土している[9]。