甘粕春吉

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甘粕 春吉(あまかす はるきち、生没年不詳)は、明治から大正期にかけての日本の内務官僚警察官。旧米沢藩士。三重県桑名郡長、飯南郡長、鈴鹿郡長を歴任。

飯南郡長在任中には、女子教育の振興を目指して飯南郡立飯南女学校(現・三重県立松阪高等学校)を創設したほか、国学者本居宣長旧宅「鈴屋」の保存事業(鈴屋遺蹟保存会)、飯南郡図書館(現・松阪市立松阪図書館)の設立を主導するなど、地域の教育・文化基盤の整備に多大な功績を残した[1]

長男は陸軍憲兵大尉、満洲映画協会理事長の甘粕正彦

生い立ち

春吉は、出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身。戦国武将・甘粕長重(景持)の末裔とされる旧米沢藩士の家系に生まれる。

警察官僚時代

明治中期、宮城県警察部にて警部を務め、1891年明治24年)当時は仙台市北三番丁に居住していた[2]

その後、日本統治下の台湾へ渡り、台湾総督府の警察官(警部)として台南県などで勤務した[3]。帰国後は三重県警察部に奉職し、関警察署長、鳥羽警察署長、宇治山田警察署長などの要職を歴任し、地域の治安維持にあたった[4]

郡長としての教育・文化行政

警察官から地方行政官へ転身し、三重県桑名郡長を経て、1904年明治37年)頃より飯南郡長に就任した。この飯南郡長時代(~1912年)において、以下の重要な教育・文化事業を主導している。

飯南郡立飯南女学校(現・松阪高等学校)の創設

日露戦争後の国力伸長に伴い、地域における中等教育、特に女子教育の必要性が高まっていた。春吉は、郡長としてこの課題に取り組み、1910年(明治43年)4月1日、松阪城跡に近い殿町に「飯南郡立飯南女学校(現・三重県立松阪高等学校)」を開校させた[5]

同校は翌1911年に「飯南郡立実科高等女学校」と改称され、後に三重県立飯南高等女学校を経て、現在の三重県立松阪高等学校へと発展した。この学校設立は、地域の女子教育の門戸を開く画期的な事業であった。

鈴屋遺蹟保存会と本居宣長旧宅の移築

1906年明治39年)、松阪出身の国学者本居宣長旧宅「鈴屋」を保存するため「鈴屋遺蹟保存会」が設立された際、春吉は、郡長として事業を強力に支援した。

春吉は、保存会の初代事務員の任命を行うなど組織の実務体制を整え[6]1909年明治42年)には旧宅を魚町から松阪公園松坂城跡)内へ移築・復元することに成功した。

飯南郡図書館の創設

1910年明治43年)11月、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の松阪公園行啓を記念し、春吉は「饗宴ごとき一時の行事よりも、永く記念となる事業を」と提唱し、公園内に飯南郡図書館(現・松阪市立松阪図書館)を建設し[7]、自ら初代館長を兼任し、通俗教育(社会教育)の拠点として地域住民に広く開放した。

晩年

1912年明治45年)6月、鈴鹿郡長へ転任し、1913年大正2年)6月まで務めた。退任に際しては、その長年の功績に対し賞与が授与されている[8]

人物

次男・甘粕二郎の回想録『回想甘粕二郎』によれば、春吉は武士の家系としての誇りを持ち、家庭内では非常に厳格な父親であったとされる。子供たちの教育には極めて熱心であり、自身の転勤に伴って各地を移動する中、息子たち(正彦、二郎、三郎)には質実剛健な気風を植え付けた。

特に飯南郡長として松阪に在住した時期は、地域の文化人や名士との交流も深く、公私にわたり教育・文化の振興に尽力する姿が家族の記憶に残されている。1910年明治43年)に皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)が松阪公園行啓した際、春吉が保存・移築に尽力した鈴屋において正装で拝観の案内(御説明)を務めたエピソードは、その職責への献身を示す象徴的な出来事として同書に記されている[9]

親族・家族

年譜

脚注

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