甘露5年5月戊子日晩(260年6月1日)、曹髦は、翌日に百官を召集して司馬昭を罷免しようと考えた。その前に、冗従僕射の李昭らに軍を整えて凌雲台(中国語版)にて命を待つよう指示するとともに、王沈・王経・王業ら三人を召集し、司馬昭を罷免する詔書を示した。曹髦は、「司馬昭の心は、道行く人は誰もが知っている。私は座して辱めを受けるわけにはいかない」と憤慨して言った。王沈・王業は、宮殿を出るや、曹髦の陰謀を司馬昭に密告した。司馬昭は、中護軍の賈充らを召集し、宮殿に進軍して陰謀を鎮圧する準備を進めた。曹髦は、陰謀が露見したことを知って、宮人三百余人を率いて司馬昭の府邸に攻め入ることを決定した[5]。
司馬昭の異母弟である屯騎校尉の司馬伷は、宮殿の東門でたまたま曹髦と遭遇したが、曹髦が怒鳴りつけたため、司馬伷の配下は散り散りになった。中護軍の賈充は、軍を率いて南門で曹髦と遭遇したため、賈充は、成済に命じて、曹髦を殺害させた。成済の剣は、曹髦の胸を突き刺し、曹髦は、車上で即死した。当時わずか20歳であった[6]。その20日後、公衆は、賈充を弑逆の罪で死罪に処すべきであると司馬昭に訴えたが、最終的に、司馬昭は、成済に弑逆の罪を着せて、成済の一族は廷尉に送られて罪を得た。
このほか、司馬昭の同母弟である安陽侯司馬榦・参軍の王羨らは、曹髦の陰謀を聞いて、宮殿に入り乱を鎮圧しようとしたが、当時、閶闔門の守備にあたっていた司馬昭の掾属の満長武・孫佑らが、司馬榦らの進入を妨げたため、司馬榦らは、東掖門に回らざるを得ず、司馬昭と合流することができなかった。司馬昭は、孫佑の一族を誅滅しようと考えたが、従事中郎の荀勗が、弑逆の罪に問われた成済兄弟ですら一族が誅滅されなかった点を指摘したため、孫佑は、官を免ぜられて庶人に落とされた。そして、司馬榦の甥である満長武は刑死し、その父の衛尉の満偉は、官を免ぜられて庶人に落とされた。当時の人は、この処遇を不公平であると考えた。郭太后は、司馬昭の上奏を裁可し、成済の三族をことごとく誅殺した[7][8]。