大阪コリアタウン
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概要


1920年代に、主に済州島からの渡航者によって、現在の大阪市立生野屋内プールの場所にあった鶴橋公設市場を中心に御幸通商店街の周辺に形成された「朝鮮市場」がルーツとなっている。在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが豊富に揃う生活に密着した市場であったが、生活様式の変化等から1984年に「コリアタウン」構想が掲げられた。なお、近隣住民の中には現在も「朝鮮市場」の愛称を使う者も少なくない。
1993年には御幸通東・御幸通中央の両商店街にそれぞれ「百済門」「御幸通中央門」、カラー舗装道路が完成した。その後、2002年日韓共催のワールドカップサッカーの開催や「韓流ブーム」の影響を受け知名度を上げた。
現在は在日韓国・朝鮮人はじめ地元の人々の生活スペースでありながら、観光客が多く訪れるようになり、さらに知名度をあげるため2009年から「生野コリアタウン共生まつり」が開催されている[2]。
歴史
前史
上町台地の東側の緩傾斜面一帯、現在の天王寺区東部および生野区西部は古代から百済野(くだらの)と呼ばれ、663年の白村江の戦いの後、多数の百済国人が移り住んだ地のひとつとされる。
奈良時代から平安時代にかけては、摂津国東成郡・住吉郡のそれぞれ一部を割いて百済郡が設置されており、現在の生野コリアタウンの辺りも百済郡比定地のうちに含まれる。商店街の「百済門」は、当地が百済野、百済郡に含まれていたことや、平野川の別名が百済川であることに因む。
百済野の北端には、まだ河内湖が残っていた時代に猪甘津(いかいつ)という港湾があり、西風に起因する高波を上町台地が防いでくれる良港として重宝されていた。
『日本書紀』仁徳天皇14年冬11月条に「猪甘津に橋をわたして、小橋(おばせ)と名付けた」旨の記載があり、朝鮮半島との交流が盛んだった古墳時代、かつ、上町台地上に仁徳天皇の皇居(難波高津宮)が置かれていた時代の猪甘津には、百済滅亡以前からの渡来人の存在も示唆されている。なお、猪甘津野から転じた地名が猪飼野である。
日韓併合以降の戦前の形成
1910年の日韓併合を経て、1922年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航した。これを機に多くの朝鮮民族(大半は済州島出身者)が労働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となった。1922年の大阪在住の韓国人は18000人を数え以降も増加の一途をたどった[3]。
故郷の味を懐かしむ朝鮮人のため、1920年代後半から自然と朝鮮市場が形成された。この朝鮮市場は現在のコリアタウンの位置から100メートルほど南に位置していた。キムチやナムルといった韓国料理や、ゴム靴などが販売され、最盛期には40軒から50軒ほどの商店が軒を連ねた[4]。
1926年には表の御幸通商店街に大阪市立鶴橋公設市場が開設された。翌年には下味原と今里間に市電が開通、1932年に城東線の鶴橋駅が開業したことで猪飼野の交通の便がよくなり多くの客でにぎわったという[4]。
大大阪時代における近郊農村の急速な都市化・工業化により、猪飼野周辺は昭和に入る頃には中小企業の密集地帯となっていた。
なお、猪飼野が属した東成郡鶴橋町は1925年に大阪市へ編入されている。
太平洋戦争が勃発して空襲が激しくなってくると、御幸通商店街の店主らは次々と疎開していった。空きとなった店舗に入ってきたのは表の商店街に店舗を欲していた朝鮮市場の人々であった[5]。
戦後
1945年の日本の敗戦後、朝鮮半島は独立で日本ではなくなったため、戦前渡航者の約3分の2は済州島に帰った。しかし、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び多くの済州島出身者が日本へ渡航してきた。
事件の凄惨さと独立後の朝鮮半島への失望から日本での生活を懐古したり、日本に残った親族や知人を羨んで、命がけで日本海を渡り密入国を図る者が絶えなかった。
特に関西、生野区は朝鮮半島残留者がいた為にそれを上回る数が目指した[6]。
終戦直後、御幸通商店街には疎開した店主が戻ってこない空き家が多く存在し、さらに朝鮮市場の人々の進出が進んだ。御幸通商店街は次第に新たな朝鮮市場として再編されていった[7]。なお、終戦から数年後に御幸通商店街は意見の対立が原因で東商店街、中央商店街、西商店街の3つに分裂している。1955年(昭和30年)ごろには旧朝鮮市場の人々のほとんどが御幸通商店街と鶴橋商店街に進出しており、御幸通商店街は「朝鮮市場」と呼称されるようになっていた[7]。
なお、鶴橋駅東側の東成区東小橋三丁目にある鶴橋商店街振興組合(通称つるしん、国際市場)もコリアタウンの様相を呈しているが、こちらは戦時中の疎開によって鶴橋駅周辺に空き地が生じ、戦後すぐ近鉄ガード下を中心として空き地一帯に闇市が広がり、闇市撤去後に整備された商店街のひとつで、戦前に形成された御幸通商店街とは成立時期も経緯も異なる。
日韓国交正常化以降
このような経緯から、戦前渡航者(朝鮮半島独立後以降の残留者)、済州島四・三事件による密入国者である再航者と事件後入国者、1965年以降の日韓国交正常化以降の移住者に4分されるが、いずれも当地の朝鮮市場を中心に生活し、日本最大の在日韓国・朝鮮人の集住地になった[6]。
コリアタウン計画
1984年、韓国大阪青年会議所と大阪JCが、御幸通商店街に対して「コリアタウン構想」を提案、3つの商店街会長らが協議を行った。しかし、コリアタウン計画が新聞で報道されると、当時は在日朝鮮人に対する偏見が根強かったために「ここを朝鮮人の街にするつもりか」などといった苦情が相次ぎこの計画は立ち消えとなってしまった[8]。
1988年のソウルオリンピックの開催は、韓国に好意的な感情が向けられる契機となった。東商店街の焼肉店「パゴダ」を営む金在文などは、商店街の活性化のために他の商店街にない韓国要素を打ち出してコリアタウンを名乗るべきとの意見が出たが、コリアタウンを名乗ることに慎重な意見もあり足並みはなかなかそろわなかった[9]。
しびれを切らした東商店街は独自に活動をはじめ、1993年に東商店街を「御幸通東商店街振興会組合」へと組織変更、コリアタウンを名乗るようになった。同時期に中央商店街は折衷案として「コリアロード」を名乗るようになっている。2つの商店街は大阪市の助成金を受け道路の舗装やゲートの設置工事が行い、1993年12月に完成した。2000年ごろには中央商店街もコリアタウンを名乗るようになった[9]。
1994年以降、コリアタウンは毎年イベントを開催していった。1994年3月には最初のイベントである「コリアタウン アジア民族祭り」が催され、焼肉やチヂミの販売やマッコリの無料配布、チョゴリで着飾った農楽隊によるパレードなどが行われた。こうした活動はマスコミにも取り上げられて反響を呼んだ[10]。
21世紀に入ると、日韓サッカーワールドカップの開催、2003年の冬のソナタのヒットによる韓国ブーム、2002年より始まった学校教育の総合学習の異文化体験が追い風となり、日本国民も訪れる観光スポットに変貌していった[1][11]。
2021年、観光客の増加から望まれていた公衆トイレが御幸通商店街に作られた[12]。
2023年4月にはコリアタウンの歴史を展示する「大阪コリアタウン歴史資料館」がオープンしている。小中学生のフィールドワークや社会見学、大学のゼミなどの利用が中心となっている[13]。
